多様性ってなんだ  人権の立場から ヒトはひとのなかでひとになる

 

 障害者の教育権を実現する会 第30回総会・お話 ◆

 多様性つてなんだ

 人権の立場から ヒトはひとのなかでひととなる

 

 平林 浩(実現する会運営委員、出前教師)

 皆さん、こんにちは。ついこのあいだ誕生日で、83歳を迎えました。ほんとにたくさんの方の支えで未だに街の中で、大人や子どもたちと科学の授業をしたり、野山を歩きまわって、自然のものを観たり、調べたりということを続けております。

 実現する会とは、高橋しのぶさんという目の見えないお子さんを、小学校1年生で担任するという出会いがありまして、それをきっかけに縁ができまして、いちおう運営委員です。何もできないんですけどそばに居続けて、最後は「自然を観る」なんて文章を書き続けていまに至りました。

 今回この30回の総会で、話をと言われて、どんなテーマで話そうかしばらく考えたのですが、つい最近、多様性について考えるうえでも衝撃を受ける事件があったり、新聞等でも多様性ということが非常に多く使われるようになっているし、文科省でも教育の多様性ということもかなりいわれるようになりました。多様性という言葉が大変多く使われるようになっています。私も多様性という言葉をかなり使う人間なのですけれども、私が多様性ということをどんなことでどんなふうに考えるようになったか、ということをお話してみたいと思います。

 多様性の認識とでもいいましょうか、わたし自身が多様性という言葉を使うようになったのは、いつごろでしょう。若い頃はそういう言葉を使ったことはありません。たぶん教員になった頃も使っていないと思います。科学の教育で多様性という言葉を使うようになりました。30年ほど前でしょうか、多様性について文章を何回か書いたことがあります。

 「実現する会」の皆さんが編集してくださっていた雑誌『人権と教育』(「優生思想は人類を滅ぼす」7号〈1987年〉、「多様性こそ共生への道」H号〈1989年》)に発表したものです。この文章の主なテーマは、多様なことの大切さをいろんな面から述べたものです。

 

  相模原事件の衝撃

 

 そういう問題意識を持っているところに、今度の、津久井やまゆり園の相模原事件がありました。重度の障害ある方々を刺し殺して しまう、そういう衝撃的な事件があって、あのニュースを読んだり新聞読んだりするときに、何かこう正面から見ていられない、気分が悪くなってしまうような大きな衝撃を受けていまだにそうなんですけど。

 この事件で、ヘイトクライムという言葉が使われますけれども、この相模原事件てのは、そういう性格の事件と言われています。簡単に言ってしまうと、この事件の容疑者は、優生思想、この世の中に役に立たない人間は、存在する価値がないんだ、そういう存在する価値のない人間は抹殺した方が世の中のためになるのだ、という考え方をはっきりもっている。そのことは、容疑者が書いて大島理森衆議院議長に渡した手紙に入っています。

 能力が劣った人間、社会的な生産をしないような人間はいない方が世の中のためになるんだという考えは、植松という容疑者の特別な考えかというと、実はそうでない。わたしは、この容疑者はどこでこの考えを獲得したんだろう、生まれてすぐこんな考えができるはずもないし、本能的にこんな考えできるはずもないのでどこでこれが正義であると思い、それを実行してしまった。この人はどうやってこんな考えを獲得したのかというところに関心があります。

 その施設に行って仕事をして、その中で自然にできた考えではないと思います。実際に、思想みたいなものが仕事してるだけでできてくるなんてことはないと、僕は思っているんですね。必ずどこかでその思想を学んだと思うんです。どこで学んだのかなあ、とんでもないことをしでかしてしまうようなことをど こで学んだのか。そう思って見ていくと、この優生思想というのは、そんなに特別なものではなくて、わたしたちのなかにいっぱいあるのだということがわかります。

 

  優生思想はわたしたちのなかにも

 

 たとえば、「ああいう入ってのは、人格あるのかねえ」という言葉をつぶやいたんじやなくて周りの人に言った、これは石原慎太郎元都知事が、1999年に、私の家の近くの府中療育センターを視察したときに言ったことばです。重度の障害ある人を見て、こういう言葉を言ってしまう、石原慎太郎という人は、もともとそういう感じを受ける人ですが。

 あるいは一昨年のことですが、茨城県教育委員会での長谷川智恵子委員が「妊娠初期にもっと〈障害の有無〉わかるようにできないのか」「茨城県では減らしていける方向になったらいい」と言いました。はっきりした優生思想ですね。

 あるいはわたしが前に書いた「優生思想は人類を滅ぼす」(雑誌『人権と教育』7号)という文章の中に取りあげてあるんですが、「元兵庫県知事という人が障害のある子どもを産まない運動を推し進めようと音頭をとったという。その論拠には、普通の人間は一生働くとおよそ二億円分の生産をする。それなのに障害者は生産するどころか、マイナスでさえあるから…」と。

 ちょっと前には裁判で、障害あるお子さんが亡くなったとき、普通のお子さんが亡くなると、生涯でいくら稼げるかということを賠償金の見積もりの中に入れるのに、障害のあ  るお子さんはそれがOだった、それはおかしいと、裁判で争っている、そういうことも明らかにこの考えとつながっております。

 あるいは日本での第二次世界大戦の始まりの頃、一九四〇年で私か小学校一年生の頃ですが、「国民優生法」という法律が作られました。その第一条には「本法ハ悪質ナル遺伝性疾患ノ素質ヲ有スル者ノ増加ヲ防逼スルト共二健全ナル素質ヲ有スル者ノ増加を図リ、以テ国民資質ノ向上ヲ期スルコトヲ目的トス」これはもうナチスドイツの主張とまったくダブつてきます。

 優生思想というと、ナチスの考え方がすぐ頭に浮かびます。有名な優生学思想に基づいて行われた安楽死政策である「T4作戦」がありますが、ヒトラーのユダヤ人虐殺の前に、障害者の抹殺が広く行われていた。その推進者は、医者と看護師でした。病院の中で抹殺した。それをも合法化しようと法制化を試みるが、むしろヒトラーはそれをやめさせて、そこから、ユダヤ人を虐殺していく。障害者の抹殺はその後も続いていて、20万人位が亡くなったと言われています。

 そんなことが行われていたり、アメリカでも「断種法」という法律が作られて、悪質な遺伝子を持っている人が、子どもを産めなくしてしまう、ということもありました。

 こんなことが、かなりおこなわれています。優生思想というのは人間社会の根底に受け継がれてしまっている。それが、今回の相模原事件にもつながっていて、突出して現れたが、そんなに特別なことではないのです。彼だけが特別な人間だと思ってしまう、それは危険   なことだと思います。

 優生思想というのは、人間について多様性ということを否定する端的な例だと思います。

 わたしは、多様性ということの一方には、同一性ということも考えなければならないと思います。そこをきちんと踏まえておく必要があります。人間の基本は、「生まれ出た全てのひとは、等しく生きる権利がある」、それは同一性であって、人種も文化も違う「ひとびとは、それぞれに選びとった人生を生きる権利をもつ」という多様性もある。多様性はそれを実現するためにある。多様性を一つでも失うと同一性のどこかが切られるわけですよね。その両方とも同時に実現されなければなりませんよね。多様性、多様性という言葉をよく聞くようになりましたが、人間の基本を前提にしない多様性は危険、という感じがします。

 先日の実現する会の全国運営委員会の宮永さんの報告にもありましたが、文科省の諮問機関の教育再生実行会議では、障害児教育の分野でも、教育の多様性ということをさかんに言うんですけど、確かに多様な場を用意しているんだけれども、それはすぐれた才能を持つ障害者を選び出す、序列をつけて振り分けようとしているものであって、生まれ出た全ての子が人生を生きるための多様性ではない。そのことは教育の中では触れてない。だから同一性と多様性ということは常に考えておかねばならないと思うのです。

 

  わたしの多様性の考え

 

 わたしの多様性という考えはどんなところ から生まれたかということを、お話したいと思います。

 多様ということを、初めて考えさせられたのは、自然の中の多様性ということなのですが、小豆とか、豆粒を何かに入れようとすると、多くはその中に入るけど中にはとんでもないところにすつ飛んで行っちやうものがある。多くは真ん中に落ちてるけど、まわりにも散らばっている。同じところから同じように落としているのになぜこうなるのだろうと思いました。

 同じスチールの球を同じところから落としても、落ちるところが少しずつ違う。なんでなんだろう、ずっと前、仮説実験授業の研究会で板倉聖宣さんに聞いたら、それはエネルギーが多様なんだと教えてくださいました。物理の法則は1個1個でなくて全体を包んでいるのですね。

 それではここで一つ実験してみます。

 ここに、注射するとき消毒に使うエチルアルゴールがあります。これで拭くと冷たくなりますよね、あれほんとうに温度が下がっているのでしょうか、普通の温度計で計ってもわかりませんね。最近は大変便利な温度計が作られていましで、表面の温度が計れるんですね。たとえば、ここの壁の温度が計れる、ここは、31ですね。床はどうでしょうか。床の方が高いでしょうか。25です。暖房ってそうですね。上の方が温かい。

 これで計ると皮膚の表面も計れます。私(腕で計ってみます。33ですね。アルコールをぬってみます。確かにスーッとして涼しく感じます。計ってみると30で、塗る前より下がっています。暑いときに打ち水をします。そうすると涼しくなる、水を付けてもそういうことが起こります。

 水の表面の温度は周りの空気より2℃か3でか低い、それはどうしてなんだとおもいますか。速度はある一定の時間にどれだけ進んだか、密度というのはある一定の体積の中にどれだけの重さがあるかで、度というのはみんなそういう2つの量が関係しているんですね。では温度というのはどれとどの量が関係しているんでしょうか、何を計っているんでしょうか。じつは、分子運動を計っているんだそうです。水の分子がそれぞれ運動している、それの平均値が温度なんだそうです。

 さっきの豆の話じやないけど、ある分子は激しく動いている、ある分子は、のろくさのろくさ動いている、そういうもの全部の平均を数字で表している。そうするとこの中にすごく速いのがいて、ピョンと飛び出しちやう。また続けてとび出してしまう。そうするとこの集団は早いのを2つ失ったことになります。するとそちらの平均値が下がる。一方空気の方はやっとこさ飛び出してきたのが加わって、こちらも平均値が下がって少し冷える。だから両方温度が下がる。分子の科学でいうとそういうことなんだそうです。温度というのは分子運動の多様さで成り立っている現象、これがもし、全部同じに運動してたら、こういうことは起こらないんです。

 こういうことをやる中で、自然そのものが多様な構造を持っているんだということを考えさせられてきました。

 自然の多様性というと、生物、いきものの多様性が一番はっきりしています。

 

  多様でない種は滅びる

 

 生物の同一性は、すべて自分の子孫を残すということ。延々とそれが続く、だから簡単に言ってしまうと、生物は自分の子孫を残すために生きている。これは否定できない。人間だってそうですね。残さなかったら、人類滅びちやうわけだから、滅びないということは、それが続いているということ。自分の子孫を残して生物が生き続けるためには、生物は多様化せざるをえない。一種類だけでいたら、病気などで全滅したら、その種は滅んでしまう。

 典型的なのは、チーターですね。あれは一種類しかいない。多様性はまったく失われていて、移植は簡単にできるんです。ですが、絶滅の危機に瀕している。生物が生き残るために、種は実に多様に生み出されています。

 「弱肉強食」とか、「適者生存」とか人間が勝手に作ったことばがありますけど、そういう言葉は、生物的にいうとおかしいのではないか。生きるために餌とらなきやいけないですから。ライオンはシマウマを食べなきや生きていけないですからね。弱いから食っているわけでなくて、餌として取れるから食っているんですね。弱肉強食だから弱いものを強いものは食っていいんだと、人間の論理にすり替えてしまう。適者生存も、そこに適応した人間が生きている権利がある。適応できなかった者は消えたってしようがない。ダーウィンの進化論を、人間社会に勝手に適応させ てそういう考え方を出しているのでしょうね・そういう考え方はすごく怖いです。そうじゃない、自然の生物たちは、遺伝子をもっています。遺伝子はたった4種類の塩基でつくられています。4種類の塩基がどうつながるかで、わたしたちは作られているわけで、大腸菌から人間まで、4種類の塩基で作られたDNAで生きているわけです。

 そういう点では、大腸菌と人間も同一性がある。同一性があるんだけれど、生きる場所を分け合って、選んで生きている。たとえば、ハワイ島にミツスイという鳥がいるんですが。くちばしが曲がっていて、とてもスズメの仲間だと思えない。アジアの方から数百万年前にやってきたスズメの仲間が、いまは30種にもなっていて、いまは遺伝子の一部は違うけど、元は同じですね。だから多様に選べて、多様に生きることが、生物として生きることを実現させている。これは自然の原理ですね。

 人間は、生物としての同一性が基本にあって、さらに生きるということの基本は人権。この世に生まれて自分の人生を自分で生きる権利を有するということが基本の同一性なんだと思います。だから人間は多様な生き方が保障されなくてはいけないし、そのための教育が保障されなくてはいけない。そういう意味でも、人間社会は多様なわけです。

 こんな優生思想のようなものがまかり通ってしまうような危険をも含んでいる。役に立たないものは役に立たないんだって論理もあるわけですから。そうじゃないよ、人間は人間がお互いに権利を認め合って生きていく、それが人間なんだ。人間の存在意味は何なのかですよね。生産しないかもしれない、でもいっしょの人間だから、いっしょに生きる。そのために、人間は社会を作っているのではないでしょうか。そのために徹底的に価値を多様化していかなくては、それは実現できない。

 生き物の多様化のためには、環境も文化も多様でなくてはならないのです。

 たとえば、ジャガイモという作物は、ヨーロッパに持ち込まれて、イギリスでは、荒れ地でも育つというのでジャガイモ一本、品種も一本にしてしまった、そのじゃがいもにウイルス病が流行って全滅した。そしたら、一挙に数百万人が餓死してしまったと、記録にあるそうです。ところがジャガイモの原産地のチリやペルーの人は、何と二百種類ものジャガイモをそだてていた。そのくらい多様なジャガイモを育てていると、天気が悪くても育つものもあるし、乾燥に強いジャガイモもあるということで、どれかが取れる。どれかが取れるということで、人間も生きていける。

 農業が単一化されて、アメリカ式農業が、どっかの肥料会社の独占で種がばらまかれている。その種がだめになったら、人類とんでもないことになってしまう。そういうことにおいても多様ということを考えなくちゃいけないと思います。自分にとって都合のいいものだけを選びとって、都合の悪いものは消した方がいい、という考えはおかしい。

 最近コマーシャルを見ていると、除菌という言葉が、ものすごく流行っていて、ばい菌は殺した方がいい、ばい菌は汚いそういう考え方が子どもたちのなかに入り込んでいます ね。ばい菌があるから、われわれ生きているんであって、そういう教育をちゃんとしていかないと、とんでもないことになりそうで心配です。最後は教育の話になります。

 

  ヒトはひとのなかでひととなる

 

 これは、盲児しのぶさんを担任したときに書いた『しのぶちゃん日記』を買ってくださった多くの方に書いた言葉です。

 ヒトは、生物としての種、生物として生まれたヒトは、ひとの中で育つことでひとになれるんだということですね。それが学校教育の基本なんだと思うんですね。

 もう一つ最後に書いた言葉で、いい言葉だなと思うのは、フランスの著名な幼児教育関係の人の言葉なのですが、テレビだったので書き留めておけなくて、名前がわからないのですが、「最も優れた大切な教育は、素敵な大人に出会わせることだ」というものです。だから私たち一人一人、素敵な大人でありたいものですね、反面教師という言葉もありますけどね。

 相模原事件の容疑者のような人が育たない社会、それはていねいにやっぱり努力して作っていくしかないですね。障害者の教育権を実現する会は、そういうことを一生懸命やってきたわけですが、一つの時代にピリオドを打つ時がきた、これはこれでいい。この時代にそれをやってきたそれは素晴らしい結果を生んだわけで、次は、それを次の人が受け継いで、また別のものを作っていく、そういうことではないかと思っております。