「集団的自衛権」は日本をどこへ導くか

 

 「最高責任者は私」「閣議決定で決める」ー−。安倍晋三首相が集団的自衛権の行使容認をめぐり、国会で挑発的な答弁を繰り返しています。過去、集団的自衛権を行使するために9条の解釈変更を閣議決定でやるなどと主張した首相がいたでしょうか。憲法は権力の横暴を縛り、人びとの基本的人権を護るためにあるのです。安倍首相はこの立憲主義の建前を破壊しようとでもいうのでしょうか。
 海外からも日本の外交・安全保障政策を不安視する声が強まっています。冷戦期、世界の憲兵として振る舞った米軍が海外派兵の規模を縮小しつつあるなか、日本の軍国主義復活を懸念する声すら上がり始めているのです。
 「安倍晋三首相が強硬なナショナリズムに転じている」(米ワシントンーポスト紙)。「安倍首相や側近が挑発的な言動を重ね、軍国主義時代の歴史を書き改めている」(仏ルモンド紙)。「大きく、遠くを見て対処するのが、先進国らしい姿ではないか」(韓国中央日報)。
 障害者の教育権を実現する運動をおし進める私たちは、障害者の学習権の拡充とあわせ、非武装平和主義と基本的人権擁護の観点から、9条の解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認しようとする安倍政権の姿勢について無関心で
はいられません。


 個別的・集団的自衛権は認められるか

 「集団的自衛権」とは何でしょうか。国連憲章(45年)には、加盟国の固有の権利のひとっとして個別的・集団的自衛権が明記されています。でもその定義が明文化されてはいませんので、日本政府の答弁書(81年)を参考にして、いちおうの定義を与えておきます。
 まず「個別的自衛権」についてですが、これは「よその国から武力侵略を受けたとき、反撃するために武力行使する権利」をいいます。これにたいし、「集団的自衛権」とは、「同盟国(米国)が攻撃を受けたさい、自分の国が攻撃されていなくても同盟国を護るために武力行使する権利」をいうのです。つまり集団的自衛権の行使とは、同盟国を助けるために同盟国の戦争に加わるということなのです。
 では日本は果たして憲法上これらの自衛権をもっているのでしょうか。憲法9条を素直に読むと、平和的生存権という新しい人権を実現して行こうとの決意のもとに「国権の発動たる戦争」と「武力による威嚇または武力の行使」を放棄し、「陸海軍その他の戦力」と『交戦権』を否認しているものと読めます。つまり自衛のための戦力をも持たないことから、「個別的自衛権」そのものを放棄していると解釈できるのです。
 でも政府の解釈は違います。「自衛のための実力行使まで放棄していない」という解釈にたっているのです。また、その行使については「わが国を防衛するための必要最小限度の範囲にとどまるべきものである」という立場をとってきています。とはいえその「必要最小限度の範囲」という言葉じたい極めてあいまいなことから、世界全体の軍事費が減少に転じているなか、日本の軍事力は米・中・露・英についで世界5位(12年時点)となっています。それにもかかわらず安倍政権は防衛予算を例年より大きく増やしてきています。いまや自衛隊は9条の建前とかげ離れた軍事力を保持しているのです。
 それなら「集団的自衛権」の行使についてはどうでしょうか。政府は、従来「わが国を防衛するための必要最小限度の範囲を超えるものであって、憲法上許されない」という解釈をとってきました。これは国連憲章にうたわれた安全
保障にかんする国際規範を、いちおう踏まえた解釈といえるでしょう。


  「武力行使」を禁止した戦後世界秩序


 国連は、日・独・伊3国が起こした侵略戦争にたいして、民主主義擁護のために結束してたたかった連合国によって創設されました。この戦争による非戦闘員をふくむ犠牲者数は700O万人とも8000万人ともいわれています。そこで国連は、二度と侵略戦争の犠牲者をだしてはならないとの決意から、加盟国にたいして国際紛争を平和的手段によって解決することを義務付けました。そして『武力による威嚇または武力の行使』を禁止したのです。これは「戦争放棄」の精神が国際秩序の大本にすえられたことを意味しています。その精神を受け継いだのが憲法9条といえるでしょう。
 さらに国連は個別的・集団的自衛権の発動についても制限を加えています。たとえばよその国から武力侵略を受け、反撃を余儀なくされたとしても、「安全保障理事会が必要な措置をとるまでの間」だけとして。戦闘状態を野放しにす
るのではなく、その期間をも制限しているのです。
 冷戦期には集団的自衛権の行使を建前にして北大西洋条約機構(NATO)やワルシャワ条約機構(WTO)などの共同防衛体制が築かれはしました。でもソ連の崩壊(91年)にともない冷戦が終わるとワルシャワ条約機構は解体され、その後。共同防衛体制の必要性は薄れてきているのです。米国が海外派兵の規模を縮小させてきているのも、このような世界の動きと無関係ではありません。


  国家間の戦争は増えている?


 安倍首相は、集団的自衛権の問題をめぐり、領海内で米国に飛んでいくミサイルをみつけたら、これを撃ち落とすのが同盟国としての日本の役割だと主張します。いまにもミサイルが飛んできそうな錯覚すら起してしまいますが、果たして第二次大戦後、国家間の戦争は増えているのでしょうか。
 国連の加盟国数は11年現在、193か国に達しています。1960年代にアフリカ諸国が独立するにおよんで加盟国数が増えたのです。ところが内戦(民族対立や宗教対立によるもの)に比して、国家間の戦争は増えるどころか数える程度しかおきていないのです。
 まず中東戦争が1945年から73年までに4度起きました(イスラエルが入植地を一方的に拡大しようとして、アーフブ諸国とあつれきを生んだことが原因)。79年に中越戦争が起きています(カンボジアのポルポト政権を支援していた中国がポルポト軍を壊滅させたベトナムにたいし武力報復を行なったもの)。80年から88年まで国境をめぐってイランーイラク戦争が、また91年には湾岸戦争が勃発(イラクがクウェートを武力で併合したことから、米国などの多国籍軍が軍事介入したもの)。03年にはイラク戦争が起きました(イラクの大量破壊兵器破棄の問題をめぐり米国、英国などの有志連合が軍事圧力をくわえたもの)。
 このように国家間の戦争が数えられるほどしか起きていないのは、武力行使を禁じた国際規範が各国の外交・安保政策に浸透してきていることの現れといえるでしょう。


  海外派兵を認める限定容認論


 集団的自衛権をめぐる憲法解釈の変更に賛成の立場をとる自民党の高村正彦副総裁は、最高裁の「砂川判決」(59年)をもちだして、「必要最小限の措置」であれば集団的自衛権の行使を認めていいなどと主張しています。
 57年7月、米軍立川基地の拡張計画に反対して基地内に立ち入った学生ら7人が逮捕、起訴されました。東京地裁(伊達秋雄裁判長)は、「駐留米軍は戦力保持を禁じる憲法9条に反する」と全員無罪をいいわたしたのです。あわて
た検察側は高裁をとびこして最高裁に上告。最高裁は、「9条が保持を禁じた戦力とは日本の戦力をいうのであり、駐留米軍はこれに該当しない」として、地裁判決を破棄したのです。
 この裁判で争われたのは、駐留米軍の存在が戦力の不保持(個別的自衛権の放棄)を掲げる9条に反しないかどうかでした。地裁も最高裁も集団的自衛権の行使についてまで言及してはいないのです。高村説は全くのこじつけといえましょう。氏の限定容認論で自衛隊の活動の縛りを一度解いてしまったら、とめどもない海外派兵への道を開くことになるのは日中戦争の歴史を一望すれば明らかです。
 日米首脳会談の共同声明(4月25日)では、尖閣諸島が日米安保の対象になると明記されました。安倍政権は米国から尖閣を防衛する確約を得られたとはしゃいでいます。しかしその領有権が日本にあるとは書き込まれなかったことにもっと考えをめぐらすべきでしょう。いま必要なのは、有事の際の軍事的対応をどうするかなどではなくて、河野談話や村山談話に示された和解の歩みを進め、日韓両国との友好と信頼を築きあげて行くことではないでしょうか。
 会員、読者の皆さん、障害者の学習権を獲得するたたかいとあわせ、非武装平和主義と基本的人権擁護の観点から、9条を破壊する集団的自衛権行使の容認について、解釈変更を閣議決定で行なうことに反対の声をあげていきましょう。

 

 

(14・5・3 山田英遣)