障害者差別解消法は成立したけれど…

 

 去る6月19日、「障害を理由とする.差別の解消の推進に関する法律」(障害者差別解消法)が、参議院本会嵩で可決・成立しました。国連「障害者の権利条約」批准のための国内法整備の一環として、この間、障害者基本法改正(2011年)、障害者自立支援法改正(2 012年)などが行なわれていましたが、今度の障害者差別解消法の成立はその総仕上げといえるでしょう。ならば、それは、そもどのようなものか。

 

 差別的とり扱いの禁止

 

 まず、その目的を見てみましょう。「障害を理由とする差別の解消の推進に関する基本的な事項、行政機関等及び事業者における障害を理由とする差別を解消するための措置等を定めることにより、障害を理由とする差別の解消を推進し、もって全ての国民が、障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に資することを目的とする」(第1条)。

 もって回った言いまわしですが、つまりは、障害者差別解消のための「基本的な事項」と行政機関や事業者への措置を定めることにより、「共生社会の実現に資する」ということに他なりません。

 そこから、差別を解消するために「必要な政策を策定し、及びこれを実施」することを「国及び地方公共団体の責務」としているのは、この目的に照らして当然といえるでしょう。そして同時に、「差別の解消に寄与するよう努め」ることを「国民の責務」としているのです。

 そのうえで、差別を解消するための措置として、大きな柱が二つ示されています。

 その一つは、行政機関や事業者に「障害を理由として障害者でない者と不当な差別的取扱いをすることにより、障害者の権利利益を侵害してはならない」として、「差別的取扱い」の禁止を法的に義務づけていることです。これは、建前のうえで障害者の権利条約の本旨にそったものとはいえるでしょう。

 しかし、ここには「差別的取扱いの定義」が、何ら見当りません。国会の質疑でも問題になったようですが、何が差別的取扱いに当るのか判然としないのです。

 国連障害者の権利条約では、「障害に基づく差別」を、「障害に基づくあらゆる区別、排除、または制限であって」「あらゆる分野において、他の者との平等を基礎としてすべての人権及び基本的自由を認識し、享有し、又は行使することを害し、又は妨げる目的又は効果を有するものをいう」と、はっきりと定義しています。そしてこの差別には、とりわけ「合理的配慮の否定」も含まれていました。かくて、これらの定義をどう活かすかは、運動の側に委ねられたといわざるをえません。

 差別を解消するための具体的な施策については、これから政府が定める「基本方針」に任されていて、今後とも注目されるところなのです。

 

 「合理的配慮」 の提供

 

 では、もう一つの柱とはなにか。それは「合理的配慮」にかかわってのことです。

 「障害者の権利利益を侵害することとならないよう、当該障害者の性別、年齢及び障害の状態に応じて、社会的障壁の除去の実施について必要かつ合理的な配慮をしなければならない」として、行政に「合理的配慮の不提供の禁止」を義務づけたのです。これもまた、障害者権利条約にそったものといっていいでしょう。民間事業者については、努力義務にとどまっています。

 とはいえ、これには前堤がついていました。「障害者から現に社会的障壁の除去を必要としている旨の意志の表明があつた場合において、その実施にともなう負担が過重でないときは」というのが、それです。

 国連障害者の権利条約に謳われている「合理的配慮」 の主旨は、障害者も他の人と同じように基本的人権を享受し、行使することができるように必要な人的、物的条件を整える義務を社会・公共の側に課しているのです。つまり、障害者の側には、社会・公共の側に障害に即した配慮を求める権利があるということに他なりません。そう考えると、「その実施にともなう負担が過重でないとき」というのも、まず、第一に権利主体である障害者本人の判断に委ねられているといえるのです。

 

 障害児教育はどうなる

 

 では、障害児教育はどうなるのでしょうか。ここでは、昨年(2012)7月に発表された文科省の諮問機関である中央教育寄寓会(初等中等教育分科会)の答申をあらためて振り返ってみましょう。「共生社会の形成に向けたインクルーシプ教育システムの構築のための特別支援教育の推進」と銘打ち、障害者の権利条約の批准を前提に教育政策が打ち出されているからです。

 しかし、障害者差別解消法に見られた「差別的取扱いの禁止」や「インクルーシブ教育システムの構築」の文言とは裏腹に、そこに示されているのは、インクルーシプ教育の破壊でしかないと見られます。どういうことか。

 何度もいうように、近代社会では権利と義務はワンセットのものとして提示されています。しかし、この二つはただ一点において、決定的な違いがあるのです。義務というのは納税の義務に見られるように、それがいやおうなく義務的に履行させられてしまうのです。これに対して権利はといえば、たとえばこの7月に参議院選挙がありますが、どの政党に投票しようと、あるいは投棄しないこともふくめて権利行使主体者に、その行使方がまかされているのです。それでとがめられるなどということはありえないのです。つまり、権利とは、選択的なのだということで、これこそがゆずり渡すことのできないところなのです。

 同じように「教育を受ける権利」(日本国憲法26条)が国民に保障されているからには、地域の通常学級や特別支援学級あるいは特別支援学校のいずれに就学するかは、権利主体者の側の選択に、最終的にはまかされているのです。私たちが運動のなかで常に強調している「親(本来的には本人)の学校選択権」の法理が、そこから導きだされてくるゆえんもあるのです。

 つまり、市教委には、障害者本人あるいはその権利代行者である保護者の意志に従い、学籍を措置する責任があるということです。

 しかし、中教審答申ではそうではありません。「障害の状態、本人の教育的ニーズ、本人・保護者の意見、教育学、医学、心理学等専門的見地からの意見、学校や地域の状況等をふまえた総合的な観点から就学先を決定する仕組みとすることが適当である」としているからです。

 見られるとおり、本人・保護者の意向は、他の専門的見地とならんで意見の一つに定められてしまっているのです。さらには、就学先の決定については、「本人・保護者の意見を最大限尊重し、本人・保護者と市町村教育委員会、学校等が教育的ニーズと必要な支援について合意形成を行うことを原則とし、最終的には市町村教育委員会が決定す各ことが適当である」(傍線は引用者)としています。これでは「本人・保護者の意見を最大限尊重し」との文言も、たんなる修辞にすぎなくなってしまいかねません。

 さらには障害者差別解消法でも言及されていた「合理的配慮」について、「『合理的配慮』の決定・提供に当たつては、各学校の設置者及び学校が体制面、財政面をも勘案し、『均衡を失した』又は『過度の』負担について、個別に判断することになる」(傍線は引用者)としているのです。先に見たように、「合理的配慮」を求めることは障害児の権利以外の何物でもありません。にもかかわらず、これでは、市教委や学校が、「体制面、財政面」で「均衡を失した、又は過度に負担」と判断すれば、必要な「合理的配慮」が提供されないということにもなりかねぬことになってしまいます。

 障害者差別解消法成立の陰で、進行する新たな教育差別を許さない広範な大衆運動こそがいま求められているといえるでしょう。それこそが「親(本来的には本人) の学校選択権」にもとづくということを、あらためて申し述べておきたいと存じます。

 

2013・7・6

官永 深