「障害者の権利条約」をどう活かすべきか

文科省の分離主義を徹底批判する   (夏季合宿で)
文科省の分離主義を徹底批判する   (夏季合宿で)

 

 

国連「障害者の権利条約」(以下、「権利条約」)が今年(2014)1月20日、わが国でも批准され、2月19日に発効しました。つまり、わが国の法律となったのです。障害者や関係者、市民など多くの人々に待ち望まれてきたことが、ここに来てようやく実現したといえます。
 しかも、国際条約というのは、それぞれの国で批准されれば、国内法に優先して拘束力をもつものです。つまり、これを誠実に実行することが政府に義務づけられたということに他なりません。そこに、障害者にかかわる教育、福祉、労働など、さまざまな局面での運動の武器として、これをいかに活用するかという課題も出てきます。
 では、私かかの運動にこれをどう活かすことができるのか。

 

 障害者の権利条約とは


 まず、「権利条約」の目的を見てみましょう。
 「この条約は、全ての障害者によるあらゆる人権及び基本的自由の完全かつ平等な享有を促進し、保護し、及び確保すること並びに障害者の固有の尊厳の尊重を促進することを目的とする。」(第一条)
 障害者も、普通の市民と同様にすべての人権と基本的自由を完全かつ平等に享有することを促進するというのです。障害者も本来の姿のままで、地域社会のなかで特別視されることなくあたり前に生活する。そうした多様性を相互に認め合い、ともに生きるインクルーシブな社会こそ求められているのです。
 この観点から教育についても、「教育についての障害者の権利を認め」、「障害者が障害に基づいて一般的な教育制度から排除されないこと及び障害のある児童が障害に基づいて無償のかつ義務的な初等教育から又は中等教育から排除されないこと」としています。さらに、今日の国際的潮流や「障害者が、他のものとの平等を基礎として、自己の生活する地域社会において、障害者を包容し、質が高く、かつ、無償の初等教育を享受することができること及び中等教育を享受することができること」(第二十四条)とされていることから考えれば、教育についてもインクルーシブ教育こそがめざされているのです。
 さらに、第二条では、「障害に基づく差別」について重要な定義がされています。

 「『障害に基づく差別』とは、障害に基づくあらゆる区別、排除又は制限であって、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他のあらゆる分野において、他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を認識し、享有し、または行使することを害し、または防げる目的または効果を有するものをいう。障害に基づく差別には、あらゆる形態の差別 (合理的配慮の否定を含む。)を含む。」
 つまり、障害者に対するあらゆる分野での、あらゆる形態の差別を禁じているのです。
 

 「合理的配慮」を受けることは障害者の権利


 さらに、「合理的配慮」について、次のように定義されています。
 「『合理的配慮』とは、障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、または行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。」(第二条)
 つまり、「合理的配慮」は、どのような種類の、どの程度の障害をもっていても、健常者 との平等を前提に、あらゆる人権や基本的自由を享有し、行使するために必要かつ適当な変更および調整だというのです。こうした考え方は、従来、障害者が社会的障壁によって不利益をこうむってきた現実に、社会・公共の側が無自覚だったことの反省から紡ぎだされてきたものといえます。障害あるゆえにこうむる社会的障壁を緩和、軽減、克服するうえで、必要な配慮を提供する義務が、社会・公共の側にあるということに他なりません。つまり、「合理的配慮」を受けることは、障害者にとって権利といえるのです。そして、「合理的配慮」を否定することそれ自体、差別とされているのは先に見たとおりです。
 まだまだとはいえ、最近は各地の駅でエレベーターやエスカレーターが設置されるようになってきました。車いすの人や歩行に難のある人にとっては、これによって移動がより可能となり、不利な条件は緩和、軽減されるといえるでしょう。
 こうした「合理的配慮」は、当然ながら教育にも求められています。保護者の付き添いを求める学校がまだまだあると聞きますが、しかし、身辺自立や食事、移動あるいは学習場面などさまざまな場面で、必要としている子には、介助員あるいは支援員をつける。そうした配慮が行政に求められているのです。
 では、「均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう」とは、どう考えればいいのでしょう。いうまでもなく国民の権利が、行政によって制限されるなど許されるものでは ありません。そこから考えるなら、「均衡を失した」あるいは「過度の負担」であるかどうかを判断するのは、教育についていえば、障害者本人やその権利代行者である親に他ならないということになります。

 

 文科省の考え方は?


 では、文部科学省はどのように、わが国の障害児教育を見据えているのでしょうか。
 昨年8月26日、学校教育法施行令一部「改正」が行われました。そこでは、施設・設備が整っていたり、高度な知識を有する職員がいる場合などに限って、教育委員会が、障害児の通常学級への就学を認める「認定就学者」制度から、今度は、教委が認める場合に限って特別支援学校に就学できるという「認定特別支援学校就学者」制度へと転換されたのです。しかし、本質的には何も変わってはいません。教委に認定されるのが、「認定就学者」から「認定特別支援学校就学者」に替わったにすぎないからです。ここに文科省の分離主義へのこだわりを見てとることができます。
 これが、ここまで見てきた「権利条約」と相いれないことは明らかでしょう。
 さらに、昨年9月1日に出された文科省事務次官通知では、就学先については、保護者の意見を最大限尊重しなければならないとしながら、「最終的には市町村教育委員会が決定することが適当である」としているのです。
 また、同じく昨年10月に文科省から「教育支援資料」が出されました。そこでは、「『合理的配慮』の決定・提供にあたっては、各学校の設置者及び学校が体制面、財政面をも勘案し、『均衡を失した』又は『過度の』負担について、個別に判断することになる」としているのです。これでは障害者の権利である「合理的配慮」が、行政や学校によって制限されることにもなりかねないと危惧されます。
 もちろん、事務次官通知や「就学支援資料」などは、行政内部の連絡文書にすぎず、法律とちがって国民を拘束するものではありません。しかし、市町村教委の就学事務担当者は、大本の法律ではなく、こうした通知や連絡文書にしたがって実務をすすめている場合も多いのです。
 これに対して、日本国憲法を根本義として運動のなかで私たちが紡ぎあげてきた「親(本来的には本人)の学校選択権」ならびにここまで見てきた「権利条約」を武器として、就学や学習権保障など個別具体的な権利要求に即してこれを克ちとる。そうした運動を全国各地に押し広めていくことこそがいま求められているのです。        

 

 宮永 潔