教育の主人公は誰か


「ヒトはひとのなかで人になる」と

わかりやすく、やさしく説く平林氏



 わたしがこの会にかかわったのは、盲児の高橋しのぶさんを担任した前年ですから、1976年でした。

 その頃のことを思い出しますと、ひと塾という教師を主にした教育運動を作り始めたのが72年で、雑誌『ひと』が出たのが73年の1月です。最初のひと塾が行われたのは3月でした。

 同時に学校の友人だった人などと一緒に保育園を作りました。バオバブ保育園と言います。中心になった人は、阿賀野川水銀事件の昭和電工に勤めていたエリートの社員だったのですが、こんな公害を出す会社は嫌だとやめて、そして保育園を作ったのです。 

 全共闘運動後で、ヘルメットをかぶって活動したような人たちが職員になって、その人たちが保育園を支えてきたんです。私は最初から理事だったものですから、団体交渉をやられて、徹夜交渉されてへとへとだった記憶があります。へとへとになって学校に行くと、学校では教師たちの組合の執行委員になっているものですから、今度は逆に学校の理事にいろいろ要求する、そんな変な感じであったのです。

 

 

       ヒトはひとのなかで人となる

 

 ちょうどその頃でしょうか、『ひと』という雑誌で「ヒトはひとのなかで人となる」という言葉を知って、よくサインなんかで使いました。ヒトはホモサピエンス、人間は、生まれたままでは人間になれないのです。人の中で、いっぱい学び、教育を受けて人になるんだということばです。これは教育の本質だと思うようになっていました。未だにその思いは変わっていませんけれども。

 ここに来る浦和駅西口のケヤキの木に、ガラスの巣を3つ見つけました。ガラスが木の枝を折って巣に運ぶところをしばらく眺めていました。あのなかの一つの巣を使って今年は雛を育てるんだなあと思いながら。

 ガラスは枝を折ってそれを重ねて巣を作るということは誰からも教わらない。ガラスは、鳥の中では親から学ぶ期間の長い鳥ですけど、巣を作るときまではI緒にいないので、どういう所に、どんな風に巣を作るかということをまったく学ぶ機会はないのに、ガラスはちゃんと巣を作る、これはガラスが生まれつきもっている本能です。本能という能力がどうやって行動を引き起こすかということは、津田道夫さんとさんざん議論しましたが、結局はわからない。わからないけど、遺伝子があって、その遺伝子からの働きで、それが何かの刺激を受けると行動が啓発されるというのは確かですね。そうやってあんな難しい巣も作るし、雛も育てますね。

 ところが、人間は生まれたときは赤ちゃんで、何もできない。もちろん生命を維持する呼吸はしていますが、何もできない。ただ、お母さんの胸からおっぱいを探して吸うくら  い、あるいは触ったものを握るくらいな能力は持っている。これは、本能によるといえると思いますが、人間はあらゆることを学んで一人前になっていくんですね。

 精神分析学者の岸田秀が人間は本能を捨てた動物であると、言ってましたが、生まれつき定まった力を全部捨てて、すべてを学び取っていく方が、はるかに可能性が大きいわけで、そのかわり学ばないと大変なことになります。だからヒトは、学ぶということ、教育を受けるということが、生きるうえでのもっとも基本的なものとなります。生存権と同じ意味での教育権ということになります。学ばなかったら人になれないということは確かだと思います。

 

 

 

       教育をするのは誰?    ―竹富町の教科書問題

 

 では、教育をする主人公は誰だろうという問題になりますが、それをテーマにいただいて考えているときに、「あめつうしん」を読みました。田上正子さんが、2か月に1回ガリ版印刷で発行しているもので、286号になっていて、わたしも放射能のことなど書いています。その「あめつうしん」の昨年の12月号に、教育の主人公にかかわるような重大な問題が2つ取り上げられておりました。

 そのひとつが、沖縄の竹富町の教科書採択問題で、田中むっみさんという方が書いておられます。

 2011年、沖縄県八重山郡竹富町教育委 員会は、中学校公民の教科書に八重山採択地区協議会の答申の育鵬社版でなくて東京書籍版を採択した。これがたいへん問題になって、答申に沿わなかったということで、文科省側から攻撃をされるようになりました。

 20131018日に「地区協議会答申の教科書を採択するよう、竹富町教育委員会に対して是正要求を出しなさい」と下村文科相が直接沖縄教育委員会に指示するというとんでもない事態になったんですね。

 実際見てみると、竹富町の中学校公民の冊数というのは、2012年には22冊、2013年には32冊、2014年には46冊、ここは増えているんですね。その程度の採用部数しかない教科書なんですが、文科省がこれにしやかりきになっている。

 採択やり直せ、もししないのなら、教科書の無償配布をしない、自分で買いなさいと脅しました。で、実は八重山地区協議会は玉津という石垣市の教育長が、自分の息のかかった人に委員を入れ替え、そして教師や町の人の声が届かないような仕組みを作って、答申をしたということがあったようです。

 何で、こんな小さな町の教科書採択に、文科省が大臣まで乗り出して、しやかりきになって、つぶそうとしたかというと、皆さんお分かりだと思いますが、育鵬社版教科書を採択させたいからなんですね。

 この教科書は、いま安倍首相がやりたい方向で中身が書かれている、といってもいいんではないんでしょうか。軍隊で国を守れとか。 沖縄のことは、ほとんど書かれていない。なぜこんなのが教科書検定を通っているのかよくわからないんですけど。

 この理不尽な要求に対して、沖縄の竹富町の人が立ち上がって、インターネットを使って、署名を集めるとか、Jツコツと根強い抵抗をしていきました。2014年3月14日には、今度は、文科省は竹富町教育委員会へ直接要求してきた。変えないんだったら、違法確認訴訟も辞さないという脅迫ですね。

 実際には、教科書の採用は、教育委員会がやることですから、違法でもなんでもないわけです。こういうのをみていると、明らかに、教育の主人公が文科省であると考えているとしか思えません。ですから自分たちの考えを何でも通そうとしている、それに対して、沖縄の竹富町のみなさんは、いや主人公は私たちですよ。われわれが決めていくことですよ、という運動を展開していった。幸いに、結果的には文科省の方が引っ込んでしまったのです。5月23日提訴を断念して、決着がつきました。 

 いま、竹富町の子たちは、東京書籍版で学んでいます。

 

 

       なぜ裏山に避難しなかったの?

 

 もうひとっ、佐野良子さんが「石巻で被災して」を書かれていますが、2011年3月11日の大震災の津波で、大川小で74人の子どもと10人の教職員が、亡くなっています。この学校自体が、海から4キロも離れていて、  学校のすぐ裏に、小さい山があって、そこまでは津波が届かなかったわけで、そこに上っていれば誰も死なないで済んだ。地震後、津波まで50分あったというのですね。その間、いったい何をしていたのかよくわからない。

 これはたいへんな問題なので、本も2冊出ていますが、みんな亡くなっているので、実際何をしていたのか、真相はわからない。親御さんたちがいま、それを提訴しているんです。もし、津波が来なかったらどうするのか、学校独自の判断で勝手なことをしたと責任を問われるのではないか、という思いが教職員の中にあって、それでぐずぐずしたんではないかと。これは証明できないので、推測ですが。

 わたしは子どもや親を連れてよく海にも遊びに行きます。たとえば横須賀の猿島に遊びに行って海の生き物をとったり、カキをとって食べちやったりということもあるのですが、そういうときにいちばん緊張するのはこの小さな島で、もし地震が来たらどうしよう、自分はどうするかな、ということいつでも考えますね。身構えて子どもたちを見ています。猿島というのは、10メートルぐらい高さがあるんで、とにかくその上に避難させなきやとか。でも直下型がきたら一瞬ですよね。

 でもそれは、教師の責任、引率する者の責任なので、そのことを目配りしながらみんなが遊んでいるのを見ている。それは当然のことだと思うのですが、なぜその学校でそれができなかったか、ちょっと信じられない。これも教育の主人公は誰かということを考える重要な問題だと思いますが、うやむやになってしまいそうな感じがします。 

 


       オランダの学校教育

 

 昨年、わたしたちがやっている仮説実験授業をやる学校をオランダで創りたいという話があって、その相談担当になってくれと言われました。まだ、あまりすすんではいないのですが、そのおかげで、オランダの教育制度について勉強する機会が生れました。

 たいへん驚きました。日本の教育と対照的で、オランダの教育の根本的な目的は、人は皆それぞれ違うことを知らせる、それが教育の目的だと書かれているのですね。日本の指導要領、最近は見てないのですが、たぶん、国民を育てると書かれている。日本の教育制度は国民を教育するシステムであるといわれております。いうことをよく聞いて、日本の民族文化を大切にして、日本が世界の中でトップクラスになるような国を作って、国民を育てるのが学校教育の仕事である。そう書いてはないかもしれませんが、やってることはそうです。

 だけどオランダでは、国民を教育するなんてひと言もない。すべて豊かな個人を育てるのです。

 世界中の有名な教育理論がありますね。フレネ教育とか、アメリカの教育理論ダルトンプランとか、モンテッソーリ教育とか世界で認められている教育の考え方を実践する学校があちこちにある。それら全部が無償で成立している学校。もちろん公立の学校もあります。親が自分で選べばいい。それだけでもびっくりしました。結局、教育の主体は人々で、どういう教育を受けるかは、人々の選択である。それを保障するのが文科省なんだ、という考え方ですね。

 日本では、一人ひとりを大事にするというより、国民を育てる文科省に沿った教育をする。そういう色彩がますます強くなってきていて、教育の主人公は国、時の権力者が主人公といった空気がひしひしと感じられます。

 

 

 

 

   (3・14総会でのお話、以下次号に続く)  

                    平林