教育の主人公は誰か


 

       昨日まで教えられていたことは嘘だった

 

  わたしが小学校6年のときに戦争が終わりました。

 僕の父親は昭和19年に召集されて、小学校の教師をやっていてしかも40歳に近い、普通だったらもう赤紙の来ない年齢です。敗戦の1年ぐらい前には、兵隊がいなくなってそんな年齢の男までかき集めて、戦場に送りました。

 父親は、5月に出かけていって、その後行方が分からなくて、いきなりフィリピンから手紙が来ました。フィリピンのミンダナオ島、あとから話を聞くと最後の輸送船団でフィリピンに到達したそうです。半分ぐらいは、アメリカに沈められてしまって、残りがかろうじて到着した。行った後すぐにアメリカ軍が上陸してきた。

 父親の話では、戦争はやらなかった。それどころじゃなくて、とにかく補給線が全く切れていて、日本の軍隊は食糧とか物資補給とか何もないのに軍隊をどんどん送って、だから、兵隊は生きていけない。結局、現住民の食糧を奪ったり、野山の植物を食べたり、川の中のカエルを食べたりして生きたらしいのですが、戦争で戦死した人は誰もいなかった。鉄砲で撃たれた人は、原住民の食糧を奪って原住民に撃たれて死んでる。あとはみんな栄養失調で死んでいる。私の父は少尉だったので50人の兵隊を連れて行って、帰ってきたのは3人だった。みんな亡くなったそうです。あまり語ってくれませんでしたけど。帰ってきたとき、トランクひとつ持って帰ってきたんですけどそのトランクの中には、亡くなった人の遺髪がいっぱいつまっていました。1年間それを届けることを学校は休職してやっていました。どこから聞いたのか、フィリピンに行ったんだけど知らないかと訪ねてきたり、子どもながらにいろいろ考えさせられることがありました。

 中学に入って、教科書が配られたら墨が塗ってありました。まだ子供だったということはありますが、昨日まで教えられていたことが嘘だった、本当ではなかったという体験はものすごいショックでした。負けたこと以上にそれが一番強かったです。それ以来、国は信じない。国家なんて信じない。わたしには偏屈なところがあって、国家が個人のことに口を出すのは嫌で、郵政省がお年玉ハガキを出したとき、いまは国じゃなくなりましたけど、年賀状など個人の気持ちで送るものに、何で国が年賀はがきなんて出すのか、と頭にきて一度も使ったことがありません。自分でハガキを作っています。万歳も一度もやったことがありません。万歳は、出征兵士を送るときのもの、学校で式典をやるときの万歳と、そういうことが頭にあるので、ぜったい万歳したくない。軍歌は歌いません。そういうことには頑固です。

 敗戦後、文部省が出した『新教育指針』(1946・5・5)第四章の理科の教育をなぜやるかというなかに、日本の人々は、本当のことを教えられなくてこんな大変な戦争を起こしてしまったということを、反省してちゃんと書いてあるんですよ。だからだまされないために科学の教育をするんですと。学問は、だまされないためにやるんだよと。

 これは、私の心にしっかりと残っていまして、いまも、国もいろいろだましたりしますけど、だますのは、商業主義の=マーシャルなどもそうで、聞いてて頭にきますね。コラーゲンを食べれば、肌がつるつるするとか、ヒアルロン酸飲めば、関節がよくなるとか、そんなことみんな嘘で、たんぱく質を食べれば、私たちの消化酵素はすべてアミノ酸に戻してしまいます。それを身体のあちこちに送るわけで、コマーシャルでは、飲めばすぐ関節に届くようなうたい文句で、ごまかしですね。手を変え品を変えやられていますが、こういうことにだまされない。これをやるべき教育の主人公は誰かということを考えさせられています。

 

 

 

       なぜ出前教師に

 

  最後に、わたし自身がやっていることにかかわって、この問題を考えてみたいと思うのですが、わたしは、1988年、54歳の時に、学校に勤める教師をやめて、街の中で子どもたちに仮説実験授業を受けさせたいというお父さんお母さんたちが作った科学クラブで、授業をすることにしました。子どもだけでなくて、大人も参加しているのですが、出前で授業をするという生き方に変えました。

 でもう、26年経ちまして、いまでもまだ10こほどグループがあります。月に、最低10日から14日位授業をしに出かけます。そのせいで、プリントを作ったり、物を用意したりの授業の準備に追われています。昔は1時間ぐらいでできてそれほどたいへんじやなかったのですが、さすがに80歳になると、集中力がなくなって、1時間当たりの仕事量が大分少なくなるんですね。授業が続くと、へとへとになります。

 わたしはいま人々に雇われている教師なのです。あの先生のやる授業が面白いから、子どもに受けさせたい、そのためにはお金も出す。人々のおかかえ教師なのです。

 私は、どうして、出前教師なんて仕事をやるようになったのか考えてみました。勤める学校教師でなくて、人々から呼んでもらってしかもイベント的にやるのでなくて継続してほとんどの科学クラブは24年以上続いています。おもしろい授業を受けたいというその思いは20年以上続けさせるだけの力をもっているのです。

 わたしが出前教師になったのは、いい加減なことではなかったんだなあと、いまになって思います。わたしのこんな大人になりたい、こんな教師になりたいという教師像にかかわっています。そう思って自分自身を紐解いていきましたら、子どもの頃から、鳥を見ることとか、自然を見ることをいつの間にか教えてくれたのが、父親です。父親から学んだことはすごくたくさんあります。

 いっしよに野山を歩きながら、あるいは、季節の移り変わりの行事をていねいにやってくれました。たとえば、お盆の花を、朝明けないうちに山に入って、オミナエシだとかキキョウだとかユリだとかひとかかえもとって帰ってきて、それで仏壇を作るとか、仏壇にしくマコモのゴザはマコモを取りに行って編んで、それで敷くとか、そういうことをていねいにやる人だったんで、それをやることで、自然を知ることになりました。

 父親だけでなく、父親の友だちの大人、印刷屋や農家や工場の小父さんたちが、結構いろんなことを教えてくれました。火打ち石で火を付けるなんてことをその頃覚えましたし、カーバイドというものに水を入れるとアセチレンガスが出てそれを筒の中に入れて火を付けるとすごい音たててバーンと鳴るんですよ。スズメおどしです。こういうふうにすると爆発するんだと、みんな教えてくれる。スズメバチの巣をとるにはこういうふうにしたらいいとか、冬山でのそり遊びのそりの作り方とかそういうことは学校でなくて、みんな近くの小父さんたちが教えてくれました。

 もちろん文字を教わったり、計算を教わったりは学校でやったことで、学校の教育は、しっかり基礎をつくっていると思うのですが、おもしろく勉強したことって、周りにいる小父さん小母さんに教わっっているんです。

 

 

       ステキな大人をふやす

 

 いま思うと、その頃ステキな小父さんがいたんです。ああいう小父さんになりたいなあという人が。すてきだということでちょっと忘れられないのは、戦後、中学生になったとき、父親や学校の先生が中心になって、諏訪探鳥会(長野県)を作りました。わたしもそこに参加し、鳥を覚えていったんです。そこで富士見村に疎開後も住み続けた尾崎喜八という詩人に出会ったのです。「碧い遠方」という僕の好きな詩集もあります。戦後すぐだったのに、尾崎喜八さんは素敵なウールのシャツを着て、ニッカボッカのズボンをはいて革の登山靴を履いて、スラーッとして現れたのです。それまで出会ったこともない姿と話す内容に、こんな人間がいたんだと憧れました。

 そういうふうに心に残る人物に出会う、これは学校教育ではない、しかし、人生を決めていくような出会いというのは、最も大切なことです。ステキな大人、そういう人々が教育の主人公だと思います。子どもたちにとって、ステキな大人、ステキな教師として前に立てたらいいなと、おこがましくも思っています。

 教育の主人公は、ひとりひとりのみなさん、国でも学校でもないパーソン、まずはパーソンがステキな大人になること、そしてその大人が子どもに何を伝えていくか、それが教育の基本ではないか、だから大人はしっかり勉強する。子どもは大人の背中を見て育つと言われますが、子どもに見せられる背中を作っていくことだと思います。それが基本なのではと、いま出前教師をやりながらいつも思っていて、そこに集まってくる大人にもそういう話をしています。

 ぜひ皆さんも、子どもが、ああいう大人になりたいと思える大人を周りに育てていってください。それが教育の主人公を育てる基礎ではないでしょうか。

(2015・3・14)


        ☆テープおこし、石川愛子