戦争神社としての「靖国神社」  −− 首相・閣僚の公式参拝に反対の声を!

 

 昨13年12月26日、安倍首相が靖国公式参拝を強行しました。これにたいし、海外からの批判がこれまでになく広がっています。隣国の中国(「戦後国際秩序への挑戦」)や韓国(「東北アジアの安定と協力を根本から破壊してしまう行為」)、米国(「失望」)や、ロシア、欧州連合、北朝鮮からも批判がでているのです。
 この動きは、かつての軍国主義日本の強烈なイメージが国際的にぬぐい去られていないのとあわせて、日本の政治指導者による歴史観の修正・破壊に国際世論が神経をとがらせてきているものとみることができます。
 障害者の教育権を実現する運動を進めているわたしたちとしても、非武装平和主義と基本的人権擁護の観点から、首相の公式参拝に無関心ではいられません。


 河野談話と村山談話の意義


 歴史観の修正・破壊とはどういうことでしょうか。それは第二次世界大戦の評価にかかわっています。この戦争は、ひと言でいって、日本・ドイツ・イタリアが起こした侵略戦争にたいし、中国・フランス・英国・米国・ソ連などの連合国側が民主主義擁護のためにたたかった正義の戦争だったということです。そのことはナチスドイツによるホロコーストや日本軍による南京大虐殺に象徴される戦争犯罪を一つとってみても明らかでしょう。
 敗戦国日本は、連合国側による占領をへて、サンフランシスコ平和条約(51年)を締結し、極東国際軍事裁判(「東京裁判」)の判決を受諾しました。つまり自分たちが起こした戦争が侵略戦争であったことを認めることによって、いちおう独立を果たしたのです。

 中韓両国が歴史観の問題についてはっきりとした姿勢をとるようになったのは、中曽根康弘元首相が靖国公式参拝(85年)を強行したのがきっかけでした。それ以後両国とは外交的にぎくしやくした関係がつづき、政府としても何らかの対応をせざるを得なくされ、河野談話(93年)と村山談話(95年)が政府見解として出されるに至ったのです。
 河野談話とは、当時、宮沢改造内閣の内閣官房長官であった河野洋平が、「従軍慰安婦(軍隊性奴隷)」問題をめぐって行なったものでした。この談話で、「慰安所」の設置については日本軍が要請し、これに直接、間接に関与したことや、「慰安婦」の募集については軍の要請を受けた業者がこれに当たったことなどを、日本政府がはじめて公に認めたのです。
 また村山談話とは、村山富市元首相が韓国や台湾にたいする植民地支配ならびに日中戦争が「侵略戦争」であったことを認めて、アジア諸国に謝罪を表明したものでした。
 これ以降、後継内閣は両談話を踏襲してきたのですが、安倍政権はこれを継承することについて、政権発足時からあいまいな姿勢をとり続けてきていました。そこへ昨年4月の麻生太郎副総理兼財務大臣他3名の閣僚による靖国公式参拝がきたのです。これにたいし中韓両国が「日本は歴史を直視し、戦時中の侵略行為による犠牲者の感情を重んじるべきだ」との批判声明をだしたのは、被害国側として当然の反応だったといえます。
 ところが安倍首相は参院予算委で、「侵略という定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国の関係でどちらから見るかでちがう」などと述べたのです。首相は先の戦争が侵略戦争ではなく、自衛戦争だったといいたいのでしょう。しかし歴史をふりかえると、過去すべての戦争は「自衛」を建前に行なわれてきたのです。
 首相は口をつぐんでいますが、74年の国連総会で「侵略の定義」が採択されています。そこには「他国の主権、領土保全、政治的独立にたいする(略)武力行使」であると明確に定義されているのです。


 靖国神社とは


 そもそも日本は明治以降、近代国家への道をどのように進めてきたのでしょうか。「富国強兵」策について考えてみましょう。それは、ひと言でいって、欧米諸国に遅れて市場争奪戦に参加した日本が重工業を中心とする産業を起こすために、アジア諸国から必要な地下資源を武力で強奪してくることを意味していたといえるでしょう。
 たとえば日清戦争は、韓国を植民地化しようとして中国と戦争になったものでした。また日露戦争は、南下政策をとるロシアにたいし、韓国における植民地支配を認めさせようとして起きた戦争だったといえます。
 さらに日中戦争は、日露戦争で奪いとった満州(中国東北部)における鉄道や鉱山開発などの権益を維持・拡大するために日本が挑発して起こしたものでした。そして40年に近衛内閣は、植民地支配をアジア諸国へ拡大することを目的に、「大東亜共栄圏」の建設を国策の基本方針として決定するに至ります。翌41年、ハワイ奇襲とほぼ同時に香港攻撃、マレー半島への奇襲上陸作戦を実施し、これ以降、南方諸地域に侵略の魔手を伸ばして行くことになります。
 こうした一連の戦争を遂行していくうえで精神的指導権を発揮したのが靖国神社だったのです。この神社は1869(明治2)年、東京招魂社として創建され、1879(明治12年)年には靖国神社と社名が変えられます。社格も別格官幣社となりますが、この社格をもつ神社にまつられる祭神は、皇室および国家に功績のあった天皇の臣下の「霊」にかぎられました。
 とりわけ靖国神社が他の別格官幣社とちがうのは、まつられる「神様」(神霊)が特定の軍人の「霊」ではなくて、戦死または戦病死・戦傷死した者の「霊」一般だったことです。いいかえると靖国の「神様」になれるのは、「天皇や国家に忠勤をつくした殉国の士」として合祀された戦没者の 「霊」だけだったのです。ですから他の神社が内務省の管轄下にあったのにたいし、陸・海軍省が実質的に管轄しました。
 また国家的崇敬の施設として、そのまつりかたが厳格に定められていました。まず天皇の「思し召し」によってまつられる戦死者が正式にきまると、その官位・姓名が「霊璽(れいじ)」(霊璽簿)に記載されます。その後招魂式ならびに合祀祭という厳粛な儀式が行なわれるのです。
 大東亜戦争(太平洋戦争)は開戦から一年で形勢が逆転し、次第に敗戦色が濃くなっていきます。すると軍部は玉砕戦法をとるに至り、戦死者を「天佑神助の神」に仕立てあげ、「靖国精神をもって戦争を勝ち抜け」と、国民を戦争協力へ追いたてて行きました。
 このように靖国神社は単に戦死した兵士をまつるだけではなく、それを模範像に仕立てあげることで戦意を高揚し、戦争に協力させるための軍事施設として存在していたのです。「戦争神社」という言葉がぴたりとあてはまるでしょう。その性格を海外にいっそう印象づけたのは、78年に東条英機元首相らA級戦犯14人が合祀されることによってでした。


 公式事拝は戦争への道


 今回の公式参拝が、それ以前の中曽根元首相(85年)や小泉元首相(01年)のそれと異なる点は、それが安倍政権の一連の政策遂行と軌を一にしているところにあります。
 すなわち日本を戦争のできる国、戦争をする国へ変えるというのがそれです。たとえば特定秘密保護法の成立や教科書・教育委員会制度の改悪、さらには集団的自衛権の行使容認にむけて憲法解釈を変吏しようという動きに、それが象徴されます。国会における「一強多弱」のもと行け行けドンドンと制度上の達意行為をかさねようというのです。まさに立憲主義の危機といえるでしょう。
 それを支える精神的基盤づくりとして、ナショナルな国民感情を形成したいのにちがいありません。政府・閣僚の靖国参拝はそのための手段の一つというわけです。靖国にまつられている「霊」を「御英霊」といい、その死を「尊い犠牲」と述べるところに、首相の真意がみえています。そのナショナルな感情を「積極的平和主義」という軍事戦略ですくいあげつつ、論理よりも情緒に訴えて歴史親の破壊をやりとげて行こうというのでしょう。
 敗戦後67年、一体いつまで「靖国」にまつられた「霊」に「殉国の士」としての役割を担わせ、政治に利用すれば気がすむのでしょう。そろそろ戦装束を解き、一介の息子・娘、父・母として故郷の父母や夫や妻・兄弟の待つ基で安らかな眠りにつかせてあげるべきではないでしょうか。
 いまこそ障害児童の個別の学習権を獲得するたたかいを継続するのとあわせて、非武装平和主義と基本的人権擁護の観点から、首相・閣僚による公式参拝に反対の声をあげていきましょう。

(2014・3・3 山田英遣)