戦争への道を許さない‐−集団的自衛権と原発


 

 

       生命と財産を奪ったフクシマ

 

 2011年3月H日の東日本大地震によって、太平洋沿岸の原発は、すべて緊急停止(スクラム)した。
 火力発電とちがって原子力発電は、運転停止しても核崩壊熱があるから冷やし続けなければならない。冷やさなければ原子炉の圧力が上がって、まず強度の弱い配管が破裂するだろう。そして原子炉内の冷却水がどんどん減って、核燃料が崩壊熱で溶けていく。これがメルトダウンだ。これが、原発がたとえ運転停止ができても、火電とちがって冷却水を循環し続けなければならない理由である。
 通常時であろうとスクラム中であろうと、原発はいくつものポンプを廻し続けなければならないのである。通常は、自らの発電で電力をまかなっているが、運転停止すればポンプ稼働の電力を外部から供給しなければならない。これは原発のアキレス腱である。
 東京電力福島第一原子力発電所は、送電線鉄塔の倒壊により交流電源が途絶えた。非常用ディーゼル発電機も津波で水没する。つまり原子炉冷却ができなくなったのである。
 地震の揺れで壊れた配管から、70気圧の蒸気とメルトダウンで生じた水素が建屋に充満し、1号機原発建屋が爆発した…。
 当時、内閣府原子力安全委員会委員長であった班目春樹は、大地震の翌12日早朝、元首相・菅直人とともに陸上自衛隊のヘリで福島に飛んだ。その機内で、「原発は構造上爆発しません」と述べていた。それから10時間もたたず1号機の原子力建屋が爆発した。
 住民の逃避行が突然始まった。大熊町の双葉病院の悲劇は、壮絶なものであった。相馬市の酪農家の「自死」は、テレビでも報道されたが、仮設住宅に避難しても「自死」者は続いた。昨14年5月末までにその数は54人にのぼっている(福島民報)。
 「国民の生命と財産を守る」のが、「最高責任者である私の責務」と国会で叫んだ首相・安倍の言葉に空々しさと虚しさを感じたのは私ばかりではないだろう。フクシマは、住民の生命と財産を奪い、動物も樹木も、生きとし生けるものたちのすべてを奪ってしまったのだ。

 

 

       戦争廃絶の世界を!!

 

 「どんな理由であれ、決して戦争はしてはならない」、私はこれが日本の《国是》だと思ってきた。
 それが戦後70年のいま、真っ逆さまの「戦争のできる国」に変貌しようとしている。首相・安倍晋三は、「集団的自衛権行使」を閣議決定し、さらに来年の参議院選挙後に「憲法改正」発議すると表明した(2・5、産経)。
 これまでの保守党政権は、アメリカの要請で警察予備隊から自衛隊に格上げし、日本国憲法の精神をむしり取ってきた。それでも戦争だけは行ってはならないと言い続けた自民党員がいた。だが、「戦争反対派」の戦争経験者は、高齢となり政界を退陣して行った。安倍が率いる現在の自民党にはそうした人たちは、ほとんどいなくなってしまった。海外メディアでもーー、
 「安倍晋三首相が強硬なナショナリズムに転じている」(米ワシントンーポスト紙)。「安倍首相や側近が挑発的な言動を重ね、軍国主義時代の歴史を書き改めている」(仏ルモンド紙)と評されるほどである。
 1945年8月15日、日本は、連合国のポツダム宣言を受け入れ「無条件降伏」をした。 「無条件降伏」とは、連合国から領土が割譲されても、高額の賠償金を課せられても「無条件」に受け入れるということであろう。日本は、語の厳密な意味で連合国軍に「敗戦」したのであって、茫漠な用語の「終戦」を迎えたのではない。
 大都市が空襲で焼け野原となって、沖縄の地上戦で沖縄県民四人に一人が死に、ヒロシマ、ナガサキの原爆と続いたのだから、当時の「主権者・統帥権者」の裕仁天皇が、「無条件降伏」を受け入れる「御聖断」を下したのは当然のことであった。
 昨年施行した「特定秘密保護法」といい、 「防衛装備移転三原則」といい、安倍政権になってから目くらまし言葉が当たり前になった。戦時中、「撤退」を「転進」といい、国民をだましてきた言葉の詐術が復活したのである。
 だいたい「防衛装備移転三原則」なんて何が何だかさっぱりわからない。だがそれは武器輸出促進なのであった。このような言葉の詐術が登場してきたとき、「国家的危機」が始まったと見なければならぬ。言葉の詐術は、民主主義否定の策謀以外ないからである。
 さて、首相・安倍は、昨年12月エジプトのカイロで支援演説を行ったーー、
 「支援は『イスラム国』の脅威を食い止めるため」「『イスラム国』と闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します」というものだ。それはシリア空爆を支持する「有志連合」参加国としての支援表明であった。
 テロ集団「イスラム国」は、邦人二人の身代金として2億ドル払えと脅迫した。そして日本人が敵であり、テロの標的となったと明言した。それを受けて日本のメディアは、「2億ドル支援は避難民保護の人道支援」の大合唱一色に染まった。ここに私は大政翼賛会的な怖さを感じた。だが二人は無残にも殺害される。首相・安倍は、「テロリストに罪をつぐなわせる」と言明して、被害者在住地の警視庁・千葉県警合同捜査本部設置させた。
 この一連の経緯で外務省はいろいろな動きをしたようである。しかし「特定秘密保護法」により明らかにされない。「テロリズムの防止に関し収集した国際機関又は外国の行政機関からの情報その他の重要な情報」にかかわるからであろう。
 「有志連合」のトップ米国は、「シリア空爆は 『集団的自衛権』の行使」だと国連に文書を送っている(14・9・23)。集団的自衛権とはこういうものなのだ。故・山田英造が、本紙 『人権と教育』(477号)に「『集団的自衛権』は日本をどこに導くか」を記し、一般には分かりづらい「集団的自衛権」を喝破している。ネットができる方は、「人権と教育」と打ち込んでもらえるとわが会のHPに簡単にたどり着く。その中の「バックアップ」をクリックされると全文が読める。ぜひ読んでほしい。 

 

 

       怖れるテロ標的、原発

 

 いかなる理由であれテロは許されるものではない。「憎しみの連鎖」は、何ひとつ問題を解決しないことは歴史上あきらかだ。
 だが「イスラム国」の所業は常軌を逸している。70年前の日本も「特攻隊」で「自爆」を強制していて、「クレージー」といわれていた。つまり基本的中身は昔の「特攻隊」とちっとも変わっていない。その「イスラム国」が、日本をテロの標的と宣言したのだ。
 いま私が最も怖れるのは、テロの標的に原発が入ってしまったことである。フクシマはそれを証明したのだった。原発の稼働を止めるのは、たやすいことである。送電線を破壊すれば交流電源がなくなる。発電した電力の送電線も断絶すれば、原発は停止する。受電も送電もダメとなれば、原発は停止せざるをえない。さらに非常用ディーゼル発電機が動かなければメルトダウンになる。それをフクシマは立証してしまった。
 日本は、どんな防御をしても全国に網羅された送電線を守ことはできない。つまり戦争のできない国になったのである。これは韓国でも同じである。原発を破壊される防御策を欧州ではとっているけれど…、なにも原発本体を破壊する必要がないことを、フクシマが証しだてたのである。  (15・2・7)