いまこそ「障害者の権利条約」を活かすとき              −−「障害者差別解消法」の施行(2016年4月)前にして

 

 

 つい先日「実現する会」事務局にこんな相談が寄せられました。秋田市の方からです。地域の通常学級に就学したものの、学校側から付き添いを求められたといいます。そうした学校側の姿勢に疑問をもちながらも付き添ってきたのですが、学校側との話し合いで、ようやく体育時のみの付き添いになりました。しかし、弟が通う幼稚園の行事に参加しなければならない時などは付き添うこともできません。そうした時、本人は支援員といっしよに特別支援学級で別の課題をやらされているというのです。

 また、東京都の方からは、同じく地域の通常学級に通うことが決まったけれども、「区の財政が破たんしたので、支援員はつけられない」と言われたといいます。

 昨年(2015)10月発表の文科省の実態調査でも、障害をもつ子どもの保護者が小・中学校に付き添っているケースが全国で1897件、1495校(昨年5月1日時点)あったと報告されています。

 このような状態がつづくなか、今年4月から障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律(「障害者差別解消法」)が施行されます。それによって、右のような事態は解消されるのでしょうか。

 

障害者の権利条約とは

 

 「障害者差別解消法」は、2006

年に国連で採択された障害者の権利条約(「権利条約」)をわが国でも批准するための法整備の一環として、2013年6月に成立しました。

 そして、「権利条約」の方は、2014年にわが国でも批准・発効し、いまや日本の法律となっています。しかも、国際条約というのは、それが批准されれば、憲法よりは下位に位置しますが、その他の国内法に優先して拘束力をもつものといえます。

 そこで、はじめに「権利条約」から見ていきましょう。

 まず、第一条には、「この条約は、全ての障害者によるあらゆる人権及び基本的自由の完全かつ平等な享有を促進し、保護し、及び確保すること並びに障害者の固有の尊厳の尊重を促進することを目的とする」と、その目的が謳われています。

 障害者も他の市民と同じように、あらゆる人権や基本的自由が完全かつ平等に享有することを促進するというのです。障害者も本来の姿のまま地域社会で特別視されることなく当たり前に生活する、そうした多様性を相互に認め合い、ともに生きるインクルーシブな社会こそが求められているのです。

 そのうえで二つの重要な定義がなされています。ひとつは「障害に基づく差別」についてです。

 「『障害に基づく差別』とは、障害に基づくあらゆる区別、排除又は制限であって、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他のあらゆる分野において、他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を認識し、享有し、または行使することを害し、または防げる目的または効果を有するものをいう。障害に基づく差別には。あらゆる形態の差別(合合理的配慮の、拒否を含む)を含む。」(第二条 定義、傍線は引用者、以下同じ)

 障害にもとづくあらゆる分野での差別を禁じているのです。教育についても同様であることは言うまでもありません。

 

 

   「合理的配慮」は障害者の権利

 

 そして二つ目の「合理的配慮」については、次のようにいわれています。

 「『合理的配慮』とは、障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、または行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう・」(第二条 定義)

 「合理的配慮」は、どのような種類の、どの程度の障害をもっていても、健常者との平等を前提として、あらゆる人権や基本的自由を享有し、行使するために必要かつ適当な変更及び調整だとしているのです。このような考え方は、従来、障害者が社会的障壁によって不利益をこうむってきた現実に、社会、公共の側が無自覚だったことの反省から紡ぎだされてきたものといえます。障害あるゆえにこうむる社会的障壁を緩和、軽減、克服するうえで、必要な配慮を提供する義務が、社会・公共の側にあるということに他なりません。つまり「合理的配慮」の提供を受けることは障害者の権利といえるのです。そして、「合理的配慮」の提供を否定すること自体障害者差別であることは、「障害に基づく差別」を定義した先の条文に示されているとおりです。

 では、「合理的配慮」の条項にいう「均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう」とは、どのように考えればいいのでしょう。もとより国民の権利が、行政によって制限されるなど許されるものではありません。そう考えると、「均衡を失した」あるいは「過度の負担」であるかどうかを判断するのは障害者本人あるいは権利代行者に他ならないということになります。

 では、こうした具体的な定義を有する「権利条約」を受けて成立した「障害者差別解消法」ではどうなっているのでしょう。

 そこでは障害者についての「差別的な取り扱いの禁止」や「合理的な配慮」の提供がいわれ、それを公的機関に義務づける一方、民間企業には努力義務としています。しかしながら、「権利条約」に明確に謳われていた「障害に基づく差別」や「合理的配慮」については、何ら定義がなされていないのです。これでは何が差別にあたるのか、どのような場合に「合理的配慮」を提供すればいいのか、あるいは提供しなくてもいいのか、その基準が地域によって、あるいはケースによって違いが生じかねません。その意味では、「障害者差別解消法」は、いまだ理念法に留まっていると言えるでしょう。

 そして、それら具体的な内容については、政府が定める「障害を理由とする差別の解消の推進にかんする基本方針」(「基本方針」)に委ねられているのです。

 

 「合理的配慮」かどうか

       判断するのは行政?

 

 

 その「基本方針」は、昨年(2015)2月に閣議決定されました。そこでは、「不当な差別的取扱い」について次のように言われています。

 「不当な差別的取扱いとは、正当な理由なく、障害者を、問題となる事務、事業について本質的に関係する諸事情が同じ障害者でない者より不利に扱うことである点に留意する必要がある。」

 では、「正当な理由」にあたるかどうかは、誰が判断するのでしょう。「基本方針」は言います。

 「行政機関及び事業者においては、正当な理由に相当するか否かについて、個別の事案ごとに……具体的な場面や状況に応じて総合的に判断する必要がある。行政機関及び事業者は、正当な理由があると判断した場合には、障害者にその理由を説明するものとし、理解を得るよう努めることが望ましい。」

 つまりは、「正当な理由」であるかどうかを判断するのは、障害者本人やその権利代行者ではなく行政や事業者だとしているのです。

 また「合理的配慮」については、「障害者の権利利益を侵害することとならないよう、障害者が個々の場面において必要としている社会的障壁を除去するための必要かつ合理的な取り組みであり、その実施に伴う剣捌が過重でないものである」としています。

 しかし、ここでも、「過重な負担については、行政機関等及び事業者において、個別の事案ごとに、以下の要素等を考慮し、具体的場面や状況に応じて総合的・客観的に判断することが必要である。」として、「過重な負担」であるかどうかを判断するのは行政や事業者だというのです。これでは国民の権利が、行政や事業者によって左右されたり、制限されることにもなりかねません。

 そして、これは教育についても同じです。2013年10月に公表された文科省の「教育支援資料」でも、「『合理的配慮』の決定・提供に当たっては、各学校の設置者及び学校が体制面、財政面をも勘案し、『均衡を失した』又は『過度の』負担について、個別に判断することになる」としているからです。これでは冒頭に見たような親の付き添いが解消されるかどうか、はなはだ危惧されるところです。

 

 日本国憲法第13条にはこうあります。

 「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする。」

 平和な社会で障害をもつ人もそうでない人も一人ひとりが個人として尊重され、生命への恐怖や貧困、差別、偏見に脅かされることなく共に幸せに生きる権利を謳い上げているのです。「権利条約」にそのまま通じるものであり、いま求められているインクルーシブな教育・社会を実現するための、憲法上の根拠を明示するものといえるでしょう。

 私たちは、こうしたインクルーシブな社会を実現するためにも、運動のなかで紡ぎあげてきた親(本来的には本人)の学校選択権や日本国憲法にも支えられた障害者の権利条約を武器に、○○ちゃん、○○くんの個別具体的権利要求に即して、その権利実現をかちとる。それを全国に押し広めていく運動をすすめようとしているのです。

               

 

 宮永 潔