わたしたちは何をしてきたか、 何を学んできたか

 本総会で私たちの会を閉じることを提案させていただくにあたって、これまで私たちは何をしてきたのか、何を学んできたのか、「実現する会」の歩みについてお話させていただきたいと考えます。

 

大西赤人君浦校入学不当拒否を撤回させるための支援運動(1971年~74年)

 

大西問題とは


 私たちの会は、1971年10月、「大西問題を契機として障害者の教育権を実現する会」という名称のもとに結成されました。それは、同年3月に大西赤人君浦和高校入学不当拒否事件が起きたことに由来しています。
 赤人君は、血友病で足が不自由なために体育や実技系の教科には参加できなかったのです。それらの教科については、当時の5段階評価のなかで一番低い評価がつけられてしまいました。そのために高校受験に際して、内申書の成績が良くなかったのです。
 そこで父親である作家の大西巨人さんは、事前に受験先の浦和高校の校長と面談して、こうこうこういう事情である、したがって内申書の成績を実質的に評価したうえで、学科試験の成績をもとに選考してほしい旨申し入れ、校長はこれを了承したのでした。
 しかし、合否が発表されたときには不合格となっていたのです。
 浦高当局者の話によれば、学科試験では「優に合格圏内」にあった。しかし、内申書の総合点が低いために、総合的に判断した結果、不合格としたというのです。
 事前に申し入れ、校長の了解を得ていたにもかかわらず、内申書の成績を機械的、悪平等主義的に適用したもので、障害をもつひとりの生徒の学習権を奪うものに他なりません。
 私たちとしては、県教育委員会や浦和市教育委員会との交渉を行うなど、支援活動を展開してきました。しかし、県教委に至っては、答えに窮すると「答えられないという答えもある」などという始末で、なかなか解決に至りません。

 

 大西問題の過渡的決着

 

 そこで大西さんは、これを訴訟に持ち込むことになります。つまり、浦高当局者ならびに県教委関係者を刑法上の涜職(とくしょく)の罪で浦和地検に告訴されたのです。1973年3月のことです。涜職の罪というのは、公務員職権乱用罪にあたります。あわせて、赤人君が不当に入学を拒否されたのと同じ年に起きた不正(情実)入学事件についても告発されています。
 しかし、浦和地検は、浦校当局者については「嫌疑不十分」、つまり、「黒でもないが白でもない、いわば灰色である」、県教委関係者については「嫌疑なし」として不起訴処分としたのです。大西さんは、すぐさま浦和地裁に付審判請求されたのですが、これも棄却され、その後、東京高裁への抗告申し立てを経て最高裁への特別抗告というところまで事態は推移していきました。そして、これが却下されたのが、1974年5月でした。
 当時はこれをもって過渡的決着といっていましたが、こういう形で一応の幕を閉じることになりました。
 この運動をとおして、私たちは何を学ん できたのか。それは、個人に対する権利はく奪は、普遍的な権利はく奪であるということに他なりません。ひとりの身に起きたことは誰の身にも起こりうるのです。だからこそ私たちのような市民運動が成り立つ根拠もそこにあるといえるでしょう。そして同時に、この間の経過をつぶさに見るなら、権利は与えられるものではなく、闘いとるものであることも、運動のなかで学んできたことでした。

 

 

運動の思想的自立と統合教育を追及する運動(1974年~)

 

久喜市未就学児解消問題

 

 大西問題の総括ならびに反省の意味をこめて、1974年の6月から秋にかけて「障害者差別と教育評価」をテーマに連続シンポジウムを開催します。そのシンポジウムに埼玉県久喜市の親御さんが参加されていました。そして、「実はうちの子は未就学のまま行政によって放置されているのだ」ということを訴えられたのです。
 当時の状況をいえば、いまだ養護学校は義務化されていません。1962年に養護学校義務化の予告政令が出されてはいますが、その時期についてはあらためて政令で定めるとあって、この当時はそうはなってはいなかったのです。養護学校義務化が実施されたのは1979年のことでした。
 しかも、予告政令の出された同年10月6日には文部省初等中等教育局長通知が出されていて、そこでは二つの柱が表明されていました。一つは障害児分離主義です。盲児は盲学校へ、聾児は聾学校へというのです。そしてもう一つの柱は、重度障害児切り捨てというものでした。重度児は教育の対象から排除するということにほかなりません。
 そうしたなかで久喜市未就学児解消問題は闘われます。「久喜市障害者問題を見守る市民の会」と連携して、久喜市立本町小学校に、当時の用語でいえば特殊学級を開設させる運動を展開し、これを実現しました。

 

 

全盲児浅井一美さんの地域校就学運動

 

 他方同時期に、会員である篠崎恵昭(よしあき)さんから、自分が勤めている学区域に視覚障害のお子さんがいて、地域の通常学級に就学したいと考えている。そういう話が会事務局に持ち込まれました。私たちとしては、全盲のお子さんが地域の通常学級でやっていけるのか不安もありましたが、家庭での様子を見せていただいたり、仙台市立立町小学校に前例があると知り、そこを見学するなどしたうえで、これはやって行けるとの確信のもとに浅井一美さんの浦和市立別所小学校(現さいたま市)への就学運動に取り組みました。
 さきに見たように、当時としては一方では障害児分離主義、他方、重度児切り捨てという政策がまかり通っている時代です。そこをどう突破するか、それが大きな課題となったのはいうまでもありません。そこで決定的な役割を果たしたのが、法 律解釈論争でした。どういうことでしょうか。
日本国憲法を私たちの運動の根本義として、とりわけその第26条「教育を受ける権利」を法源とする法体系に注目したのです。学校教育法第71条(当時、現72条))というのがありますが、そこには盲学校とはどういうものであるか、聾学校とはどういうものか、さらには養護学校の目的が書かれています。しかし、盲者はかならず盲学校に行かなくてはならないとは書かれてはいません。教育を受ける権利が、国民の権利である以上、そう書かれるはずはないと私たちは主張したのです。
 少しばかり細かくなりますが、学校教育法施行令に第22条の2の表(当時、現22条の3の表)というものがありました。これは盲者や聾者、肢体不自由者、病虚弱者とはどういう障害の範囲に属する人を指すのかといったことを一覧表にしたものです。しかし、これもまた障害児が通常学級に就学することを妨げるものではなく、盲学校や聾学校、いまの言葉で言えば特別支援学校に就学できる人のいわば資格要件を示すものに過ぎなかったといえるでしょう。
 そうした法律解釈を展開して、浦和市教委との話し合いの末、浅井一美さんの地域校就学を克ちとったのでした。この過程で私たちが学びとったのは、権利は個別具体的に克ちとらねばならないということでした。
 権利というのは権利一般として侵害されるのではなく、○○ちゃん、○○くんといった個別具体的な権利侵害として現れる以外にないのです。そうして克ちとった権利を誰もが持っている普遍的権利として、あわせてそのような運動を典型として全国に発信していく、そういう運動を以後展開することになります。

 

 

全盲児浅井一美さんの地域校就学運動

 

 一方では特殊学級開設の運動を行い、他方では障害児の地域校就学の運動に取り組み、それを実現させる。こうした運動のなかから私たちは、「父母(本来的には本人)の学校選択権」の法理を、1977年の第6回総会で提起します。いまは「親(本来的には本人)の学校選択権」と言っていますが、それは父母が必ずしも親権を持っているとは限らず、施設に入所している子どもたちについては施設長が親権を行使しているといった場合などもあるからです。
 ここにご参加のみなさんにとっては、さんざん聞かされてきたことではあると思いますが、これは私たちの運動の基本をなす考え方ですので、いましばらくお付き合いください。
 近代社会では、権利と義務はワンセットのものとして考えられています。しかし、権利と義務は、ただ一点において違うのです。では、どこが違うのか。
 義務というのは、いまは戦前・戦中ではありませんから兵役の義務というのはありません。教育の義務は、戦後180度転換して「教育を受ける権利」となりましたが、いまでも納税の義務はあります。労働の義務というのもあります。とはいってもこれは権利でもあります。税金を納める権利であり、働く権利です。
ここでは、その納税の義務についてみてみましょう。
 会社勤めをしていますと、これは嫌だと言っても給料から所得税が天引きされます。また、物を買えば消費税が徴収されてしまいます。消費税なんて反対だから払うのは嫌だと言えば、品物は売ってはもらえません。このように義務というのは本人の意志にかかわらす、否応なく義務履行させられてしまうのです。
 では、権利はどうか。ここのところずっと改憲が大きな問題となっているので、日本国憲法をパラパラ眺める機会があるのですが、選挙権について、これは「国民固有の権利」であるとわざわざ書いてある。その選挙権についてみるなら、だれに投票するか、あるいはどの政党に投票するかは権利行使主体者の選択にまかされているのです。あるいは、今回投票するに値する人がいないなという場合には投票に行かない、つまり棄権するという場合もあります。ですから、権利というのは、本人の意志いかんにかかわらず、否応なく履行させられてしまう義務とは違って、権利行使主体者の選択に任されているということにほかなりません。
 では教育の場合はどうかというと、同じように地域の通常学級、特別支援学級、または特別支援学校のいずれに就学するかは、権利行使主体者、つまり子ども本人の選択に任されているということにほかならないのです。子どもが小さい、あるいは意志表示できないという場合には、権利行使代行者である親がその権利を代行して行使することになります。親(本来的に本人)の学校選択権の法理が導き出されるゆえんです。
 学校教育法には、盲者は盲学校に行かなければならないとは書かれていないこと。学校教育法施行令にある障害についての一覧表(現22条の3の表)も、障害児の地域校就学を妨げるものでないことは先に見たとおりです。つまり、法令においてもこの考え方は裏付けられているのです。
 この法理を運動の武器として、地域校への就学運動を全国的に展開してきました。
しかし、障害をもつ子どもが地域校に就学すればそれで終わりということではありません。その子が必要とする条件が満たされる形で教育が行われなければ、その子の学習権が保障されたことにはならないからです。そのことを私たちは、「特別な配慮はいらない」けれども障害に見合った「必要な配慮」は提供されるべきであると主張してきました。
 さかのぼって浅井一美さんの場合を見るなら、教科書保障問題というのがあります。一美さんにとっては健常児のための教科書――墨字の教科書といいますが――これは一美さんには読み取れない。当然ながら点訳された教科書、あるいは触って読み取れる教科書が不可欠です。行政はそこまでやりませんから、当初は私たちの会のなかに点訳グループをつくり、触れる教科書を一美さんに提供するのと並行して、それを行政に保障させる運動にも取り組み実現しています。
 最近の傾向でいえば、介助員が付かなければ学校生活を送ることが難しいという子には当然介助員が配置されるべきと考え、運動を積み上げてきたところです。そうした考えのもとに、運動は盲児統合教育の問題を越えて、遅滞児、自閉児、発達障害児教育の問題へと広がっていきます。
 しかしながら、昨日私が事務所当番をしていましたら、石川県小松市の方から就学相談の電話がありました。現在視覚障害の特別支援学校幼稚部に通わせているが、今年就学年齢に達したので、それを機に地域の通常学級に通わせたいと考えている。話し合いをつづけているが市教育委員会はそれを認めないというのです。浅井一美さんの場合からすでに40年を越えています。20年以上前には全国で200例を超えているという盲児統合教育です。
 市教委との話し合いで、2017年度については特別支援学級に在籍しながら通常学級に通うということで話はまとまりそうだとのことでしたが、石川県では、全面的な通級は認められてはおらず、授業時間の半分を越えないということになっているというのです。条例だか規則だかわかりませんが。
 今後も相談を継続することになると思いますが、46年にわたる私たちの運動が、それを必要としている人にまだまだ届いていない現状、そして行政の側のあまりにもの無知に愕然とさせられた次第です。
 それはともあれ、当時の養護学校義務化をめぐる論争をみると、それまで教育の対象から締め出されている子どもたちがいるという現状からみれば、養護学校義務化完全実施 という方向が出てきます。他方、障害をもつ子どもたちは、養護学校などに行かされ地域の通常学級から排除されてきたではないか、それは差別であるという立場からは養護学校義務化阻止という方向が打ち出されます。私たちの提起した親(本来的には本人)の学校選択権の思想は、こうした論争を調和的に解決する私たちの側からする回答でもあったといえるでしょう。
 このように私たちの運動は、70年代を通じて思想的な自立を果たすとともに、就学問題にとどまらず、教育実践の課題としても、理論的な関心としても盲児統合教育の問題から遅滞児、自閉児の統合教育の問題へと広がり、全国から寄せられるさまざまな、相談に応えながら今日に至っています。
こうした運動課題の全国的な広がりにともない、会名から「大西問題を契機として」が取れ、現在の会名になったのが、1979年2月の第8回総会でした。

 

人権国際主義にかんする問題提起(1980年~1990年)

 

 国際障害者年行動計画(1980年)
では、私たちは、どのような国際的な思潮と結びついて運動をより充実させてきたかというところに移ります。
そうした文書として、まず挙げられるのは、1980年に国連で採択された「国際障害者年行動計画の概念構成と主な原則」でしょう。そこでは障害区分が明確に示されたのでした。すなわち、損傷(Impairment)、障害(disability)、ハンディキャップというように障害を三つに区分して考えようというのです。どういうことでしょうか。 
 たとえば未熟児網膜症であれば、未熟児で生まれたことから保育器の中で酸素過多になり網膜が損傷される、そのことによって目が見えないという障害を負い、そして白杖とか点字を使うというハンディキャップを負うことになってしまう。このように考えることで、「親の因果が子に報い」といった過去の因習に基づく偏見などが排除されることになります。
 さらにこの文書では、後のインクルージョンという考え方に結びつく重要な文言が書かれています。
 《ある社会がその構成員のいくらかの人々を閉め出すような場合、それは弱くもろい社会なのである。障害者は、その社会の他の者と異なったニーズを持つ特別な集団と考えられるべきではなく、その通常の人間的なニーズを充たすのに特別な困難を持つ普通の市民と考えられるべきなのである。障害者のための条件を改善する行動は、社会のすべての部門の一般的な政策及び計画に不可欠の部分を形成すべきであり、また、それは、国の改革プログラム及び国際協力のための常例的プログラムの一環でなければならない》
 「ある社会がその構成員のいくらかの人々を閉め出すような場合、それは弱くもろい社会なのである」というのは、まさにインクルージョンということにほかなりません。
 この時はまだ障害ある人のことを原文ではdisabled  personsといっていたのではないでしょうか。これでは何かが出来ない人という意味になってしまいます。それが後にはpersons with disabilities、障害をもつ人といわれるようになります。つまり、障害をもっているけれども普通の市民だということです。そのような考え方の基本が、障害者は、「通常の人間的なニーズを充たすのに特別な困難を持つ普通の市民と考えられるべきなのである」として、ここに示されているのです。

 

 

障害者に関する世界行動計画(1982年)

 

 さらにはその2年後、国連総会において「障害者に関する世界行動計画」が採択されました。そこでは次のようにいわれています。
《障害児・者の教育サービスの開発は、基本的な基準に従って行われなくてはならない。それらのサービスは、
(a)個人化すること――つまり、当局管理者、障害をもつ児童とその親の間でカリキュラム目標と短期的な目的について、定期的な見直しを行い、必要な時に修正すること。
(b) 地元で受けられること――つまり、特別な場合を除いては、児童の家または住んでいるところから手頃な距離にあること。
(c) 統合的であること――つまり、年齢や障害の程度に関係なくすべての人々のために(サービスが)提供されること。従って学齢期の児童は誰も障害の重さを理由に教育を受けられなかったり、他の児童よりも明らかに程度の劣る教育を受けることはない。
(d) 選択できること(以下略)》
 私たちの主張する「親(本来的には本人)の学校選択権」の思想とピタッと一致する考え方がここには示されています。統合教育の考え方が世界的な趨勢となったといえるでしょう。

 

子どもの権利条約(1989年)

 

 1989年には国連総会で「子どもの権利条約」が採択されます。旧来の考え方では、子どもは救済の対象であった。それがここでは権利の主体として、位置づけられたのです。差別の禁止(第2条)とか子どもの最善の利益が優先されること(第3条)。さらに第23条には、障害児の権利について書かれています。
 《その3。障害児の特別ニーズを認め、2に従い拡充された援助は、親または子どもを養育する他の者の財源を考慮して、可能な場合にはいつでも、無償で与えられる。その援助は、児童が、可能な限り全面的な社会統合、ならびに文化的および精神的発達を含む個人の発達を達成することに貢献する仕方で、教育・訓練・保険サービス・雇用準備及びレクレーションの機会にアクセスし、かつそれを享受することを確保することを目的とする(以下略)》
 このようにいわれています。これもまた私たちの運動をすすめるうえで大きな力となったものです。
また、ここでは「親の第一次的養育責任に対する援助」(18条)についても記されています。
 従来、国は子どもに教育を施す、「施す」というのは嫌な言葉ですけれども、その一方、親は家庭教育において自分の子どもにしつけなどを行うということだったのですが、ここでは、その親を第一次的養育責任者として位置づけ、その親を国は支援しなければならないとしています。たとえば、教育において「可能な限り全面的な社会的統合」を求めて地域の通常学級就学を要望する親に対しては、国は適切な支援を行わなければならないということに他ならないのです。
 ここに述べたことは、国際的な潮流を紹介することにとどまるものではありません。
 私たちは、これらの考え方を市教委に提出する要望書の形で、また、市教委との交渉に際しては、これらを縦横に使いこなして障害をもつ子どもたちの権利要求を実現してきたのでした。なかでも子どもの権利条約は、批准されてわが国の法律になっているので大きな役割をはたしたことはいうまでもありません。これを私たちは、人権国際主義と呼んでいるのです。

 

 

学習概念、自立概念の転換

 

  私たちは1997年に菊地翔子さん(脳性麻痺の後遺症、車いす使用)の地域校就学運動に取り組みました。その時に母親である菊地絵里子さんが茨城県茎崎町(現つくば市)の教育長に提出した要望書(内容証明郵便)の中から一部引用してきました。たいへん感動的な文章ですので読んでみます。
 《翔子が、授業の内容を理解することはできないことも解っています。だからと言って一緒にいることが意味がないとは思えません。翔子なりの学び方があると考えます。掛け算を理解することはできなくとも、クラスの友達が掛け算を暗唱する声を聞くことはできます。翔子にとっては、それを聞くことが学習です。先生の声に対する子どもたちの反応をまじかに感じることも、翔子にとっては学習です。子どもたちのざわめきや歌声のする場にいること、「翔子ちゃん」と語りかけてくれるいろいろな声を感じて聞き分けていくこと、たくさんの友だちから顔を見つめてもらうこと、手を握ってもらうこと、自分に対して様々な反応を示すことを体全体で感じること、それらすべてが翔子にとって学習だと考えます。子どもたちのごく普通の学校生活の中にいてこそ受けられる刺激が、翔子にとって今一番必要な教育だと考えるのです。養護学校で一対一に近いかたちで受ける指導で伸びる力もあるかと思います。しかし、私どもは、翔子が子ども時代に地域の子どもたちといっしょの学校生活を送ることでこそ伸びる力があると信じています。》
 地域の通常学級にお子さんを就学させればそれで終わりということではありません。当然ながら、そこでの学習が本人に即してなされることが基本と考えます。
 ここで菊地さんは、子どもの学習を「読み・書き・算」というふうに狭く考えるのではなく、自分に向けられるさまざまな周りの反応を体全体で感じとることも、翔子さんにとっての学習だといっています。つまり、日々の生活が学習なのだというふうに広く学習を理解する必要があるといっているのです。
 これまでは学習といえば、教科学習というせまい範囲に限られた学習概念に縛られていました。教育委員会に交渉に行けば、「学習の方はどうするんですか」といいます。高校受験の場合でも、県教委や高校側は、受験で「点数さえとっていただければいいですので」というのです。
 ですから、学習概念を教科学習だけにとらわれることなく広く捉えることで、重いといわれるお子さんの地域校就学ならびに学習保障の面でも大きく前進するものと考えます。実際、菊地翔子さんはこのような両親の考えのもとに、地域で小、中学校時代を過ごしたのでした。
 また、いつだったか覚えていないのですが、菊地絵里子さんが「うちの子にとって自立とは、母親や家族以外の介助を翔子が受け入れること」といわれていたのを覚えています。
 自立というと、教育委員会や教師は、すぐに身辺自立が出来ることと考えがちです。身辺自立ができていないというと、市教委は、「それでは通常学級は無理なので、特別支援学校か特別支援学級に」というのです。
 特別支援学級では、そうした身辺自立のためのカリキュラム編成をするところも出てきます。そして、そのような学校が多いとも聞きます。
 そうではなくて介助が必要な子には介助員をつける。その介助員を受け入れることが、その子にとっての自立であるというのです。子どもたちが多様であれば、それぞれに見合った自立の仕方もあるでしょう。自立ということについてもまた、その概念の拡張・転換がいま求められているのです。
 そして、このような学習概念、自立概念の拡張・転換は、就学後の働くということについても、その概念の転換を迫るものといえるでしょう。

 

 

統合教育からインクルージョンへ

  サラマンカ宣言(1994年)

 いま一度、人権国際主義に立ち返ります。
1994年6月、スペイン政府と国連教育科学文化機関〈ユネスコ〉共催の「特別ニーズ教育に関する世界会議」が開催され、そこで「サラマンカ宣言」が採択されました。そのなかでインクルージョン(inclusion)ということが初めていわれます。直訳すれば包括的ということになります。教育についてはインクルーシブ・エデュケーション(inclusive education)、包括教育ということになりますが、適当な訳語が見当たらないのでインクルージョン、インクルーシブ教育といっています。
 地域にはさまざまな人が住んでいる。十人十色といわれるようにそれぞれが違う。百人いれば百色です。社会というのは本来多様性に満ちているのです。そのような地域社会には、障害ある人もそうでない人も、さまざまなニーズを抱えた人がいる。そのなかで障害者も本来の姿のままで、特別視されることなくあたり前に生活する。そうした多様性を相互に認め合い、ともに生きるインクルーシブな社会がもとめられているのです。
 教育についていえば、地域に住む障害児をふくめて多様な子どもたちをそのまま包みこんで地域校に受け入れ、教育をするというのです。
 ここにインクルージョン、インクルーシブ教育という考え方が、鮮明な形で示されました。それまで私たちは、統合教育=インテグレーションといっていたのですが、私たちの考える教育のあり方とインクルーシブ教育が、そのまま重なるものであることから、以後、私たちもインクルーシブ教育を採用しています。

 

 

 障害者の権利条約(2006年)

 そしてその方向が、より具体的かつ締約国にその遵守を義務づける形で登場してきたのが、2006年12月13日に国連総会で採択された「障害者の権利条約」でした。国際条約ですから、それが批准されれば憲法に次ぐ法律となり、他の国内法の上位に位置するものです。わが国では、2014年1月20日に批准され、同年2月19日に発効しています。だからこそ私たちは、地域校就学にあたって、あるいは介助員、支援員を市教委に要望する際にも、これを運動の武器として活用してきたのです。これまで「実現する会」に寄せられた全国各地からの相談を見るかぎり、そうした要望をお持ちの方は少なくないのではないかと思われます。そこで、障害者の権利条約について、少しばかり詳しく見ておきましょう。
 まず、その目的として、つぎのように書かれています。
《この条約は、全ての障害者によるあらゆる人権及び基本的自由の完全かつ平等な享有を促進し、保護し、及び確保すること並びに障害者の固有の尊厳の尊重を促進することを目的とする。》(第1条)
 障害者も普通の市民と同様にすべての人権と基本的自由を完全かつ平等に共有することを促進するというのです。インクルーシブな社会が求められているといえるでしょう。
さらには、障害に基づく差別や合理的配慮については、以下のように定義されています。
《『障害に基づく差別』とは、障害に基づくあらゆる区別、排除又は制限であって、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他のあらゆる分野において、他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を認識し、享有し、または行使することを害し、または防げる目的または効果を有するものをいう。障害に基づく差別には、あらゆる形態の差別(合理的配慮の否定を含む。)を含む。》(第2条 定義)
 障害者に対するあらゆる分野での、あらゆる形態の差別を禁じているのです。
《『合理的配慮』とは、障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、または行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。》(第2条 定義)
 「合理的配慮」は、どのような種類の、どの程度の障害をもっていても、健常者との平等を前提に、あらゆる人権や基本的自由を享有し、行使するために必要かつ適当な変更および調整だというのです。こうした考え方は、従来、障害者が社会的障壁によって不利益をこうむってきた現実に、社会・公共の側が無自覚だったことの反省から紡ぎだされてきたものといえるでしょう。障害あるゆえにこうむる社会的障壁を緩和、軽減、克服するうえで、必要な配慮を提供する義務が、社会・公共の側にあるということに他なりません。つまり、「合理的配慮」の提供を受けることは、障害者にとって権利といえるのです。そして、「合理的配慮」を否定すること自体、差別とされているのは先に見たとおりです。
 こうした「合理的配慮」が、当然ながら教育についても求められているのはいうまでもありません。
学校側が親に付き添いを求めるケースがまだまだあると聞きます。そうした場合、障害者の権利条約を武器として私たちは、付き添いを断る、あるいは介助員を要求するなど、親御さんの要望を着実に実現してきました。
 では、条約にある「均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう」との文言は、どう考えればいいのでしょう。言うまでもなく国民の権利が、行政によって制限されるなど許されるものではありません。そこから考えるなら、「均衡を失した」あるいは「過度の負担」かどうかを判断するのは、障害者本人またはその権利行使代行者である親に他ならないということになります。

 

 

「実現する会」運動とは何だったのか

 

  「実現する会」では、会活動の三本柱として就学闘争、創造的教育実践、理論活動を掲げています。私たちの運動は、まぎれもなく障害児の学習権実現の運動であったといえるでしょう。それは単に地域校に就学させれば終わりという運動ではありません。就学した後の学習をどう保障するか、それもまた大きな課題だったのです。そのための教育実践、たとえば平林浩さん、篠崎恵昭さん、野村みどりさん、山田英造さん、石川愛子さん、それに私もふくめて会員、読者のみなさんが、視覚障害、聴覚障害、自閉、情緒障害、発達障害、遅滞などさまざまな障害をもつ子どもたちの教育実践を、月刊『人権と教育』、増刊『人権と教育』(年2回刊)などに発表してきました。
 と同時に、こうした実践に触発されて紡ぎだされた津田道夫さんの認識論、とりわけ私などは、その気分論から多くを学び自分の実践に活かすことができました。津田さんには「盲児の認識発達の筋道」といった労作がありますし、『情緒障害と統合教育』という著書もあります。
 柴崎律さんの初期言語獲得論などの理論的貢献もまた、障害児を目の前にした教師にとって、実践上の指針となるものといえるでしょう。
また、私たちは、自閉とは何か、遅滞とは、情緒障害とは、といった問いかけのもとに原理的把握も行ってきました。教育実践を理論的に再把握するとともに、その理論をもとに自らの実践をあらためてとらえかえしながら、次のステップへすすむということを繰り返してきたのでした。こうしたこともまた私たちの機関紙・誌に掲載されています。
このような活動を行ってきたのは、他に例を見ない「実現する会」の特長といえるのではないでしょうか。 
 そして、いまの時点から振り返ってみるなら、「実現する会」運動というのは、障害児教育の分野で権利感情をたがやす運動ではなかったかと考えます。
就学相談で、義務教育ってどういうことだと思いますかと親御さんにたずねると、「子どもが学校に行く義務でしょう」と答えられることがあります。その時、「いや、そうではなくて子どもには教育を受ける権利があるんです」というところから始まって、障害をもっていても地域の通常学級に就学する権利があるということを納得していただく。そして単に納得していただくだけではなくて、市教委や学校側から不当な発言などがあったときに、直感的にそれはおかしいと考えることが出来る――それを権利感情と表現していますが―、そうした資質をたがやす運動にもなっていたのではないかと考えるのですがどうでしょう。

※右は2017年2月25日に開催された障害者の教育権を実現する会第30回総会での会務報告に加筆したものです。

 

 宮永 潔